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「内臓とこころ」三木成夫  文庫版解説  情が理を食い破った人 養老孟司

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「内臓とこころ」三木成夫 

文庫版解説 

情が理を食い破った人 養老孟司 (P201)

 

久しぶりに三木先生の話を読んで、先生の語り口を想いだした。三木先生の語り口は独特で、それだけで聴衆を魅了する。東京大学の医学部である年に三木先生に特別講義を依頼したことがある。シーラカンスの解剖に絡んだ話をされたが、講義の終わりに学生から拍手が起こった。後にも先にも、東大医学部の学生を相手にしてそうい う経験をしたことは他にない。三木先生の話は、そういうふうに人を感動させるものだった。ご本人の表現によれば、「はらわた」の感覚で話をされたからであろう。聴衆はまさに「心の底から」動かされるのである。それに対して通常の講義は「体壁系の脳」から出るから、「はらわた」に沈みないことが多い。つまり「理に落ちて」しまう。 …

 情理ともに兼ね備えることはなかなかむずかしい。理に落ちてはつまらないし、情が先走っても困る。漱石が書いたとおりで、知に働けば角が立ち、情に棹させば流さ れる。自然科学は理性一本ということになっている。でもじつは裏にさまざまな情があって、そこに人間の品格の問題が隠れているように思う。品格を決めるのは、たぶ ん情理そのものではない。両者のバランスであろう。学者としての三木先生はそこの バランスが見事な人だった。むろんあそこまで行くには、さまざまな苦労があったに違いない。普通の科学者なら、情は徹底して押さえ込んでしまう。でも三木先生はそこをいわば情が食い破った人なのである。だから書くことや言うこと、つまり表現がホンネとなって、人を打つ。この講演でもシモの話がよく出てくるが、聞いているほ うは素直に笑っている。品の悪い話にはならないのである。

 現代社会では、理の話は腐るほどある。でもそれを上手に動かす情が欠けている。 シラけるとは、それをいうのであろう。シーラカンスの解剖のような、日常とまったく縁のない話をしているのに、聞いている学生がその話に吸い込まれてしまう。まったくシラけない。これはいったいどういうことか。当時の私はよくそう思ったものである。そのシーラカンスと現在をつなぐものが、三木先生の情である。子どもさんへ の愛情と同じで、シーラカンスやそれが象徴する生命の長い歴史への先生の愛情が、表現の隅々から伝わってくる。その生命のなかには、むろん生物としての現在の自分も含まれている。それを単なる理屈で語らないところが、三木先生なのである。

 以下は老婆心である。この本を読むときに、現代の生物学の本を読むようなつもりで読まないで欲しい。生きものとわれわれをつなぐものは、ただ共鳴、共振である。 それを三木先生は宇宙のリズムと表現した。共振はどうしようもないもので、同じリズムで、一緒に動いてしまう。三木先生はおそらくその根拠を追究し、長い生命の歴史のつながりを確認したのである。二十一世紀の生物学は、おそらく生きもののそうしたつながりを確認する方向に進むはずである。またそうなって欲しいと思う。 

 三木先生はゲーテメタモルフォーシス、生物学でいう変態にも、強い関心を持たれていた。昆虫の完全変態とは、じつは寄生性の昆虫と、ホストの上手な合体ではないかという現代の仮説を紹介したら、三木先生は大いに喜ばれたに違いないと思う。 私がそう説明したときの、三木先生のホーッという顔が目に浮かぶような気がする。 そうだろう、そうでなくてはいけない。間違いなくそういわれそうな気がするのである。これも実際にそうだとすれば、生きもののつながりの典型的な一例である。十九世紀以来の生物学は、ルネッサンス以降の西欧文明の常識を背景にしてきたから、生きものそれぞれの個に注目してきた。しかし当然ながら、生きものはそれ単独で生きているわけではない。かならず生きものに囲まれて生きているのである。その感覚がなくなったのは、水田や杉林を見慣れている現代人だからであろう。杉だって、稲だって「それだけで生きている」とつい思わされてしまうのである。

 まもなく三木先生の時代がまたやってくる。そんな気がしてならないのである。