そのまんまたろうのブログ

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小6-16 四則混合

小6-16 四則混合

 

小6-16四則混合の計算プリントに取り組んでいる。

このプリントには、以下の3つのメッセージがプリント内に書かれている。

 

「( )の中を先に計算する」

「途中式も書きなさい」

「足し算・ひき算より先にかけ算・わり算」をする」

 

これまでのプリントは、四則混合問題はなかったため、

初めて問題に取り組む子どもはきっとこのプリントで、

足し算や、ひき算を先に解いてしまったり、

( )を優先して解かず解いてしまったり、

そういうミスをするのだと思う。

 

僕はすでに四則混合問題を解いたことがあるし、

( )を優先して解かくことも、

足し算・ひき算より先にかけ算・わり算をすることも、

すでに分かっている。

だから、問題を初めて解いたとき、

この3つのメッセージを「流し読み」していた。

 

メッセージの意味は分かっていたのだけれど、

めやすの時間内でクリアすることが「できなかった」

 

そのとき改めて、このメッセージをしっかりと読んだ。

 

結局僕は、「分かっていたけど、できなかった」

そんな状態は、「分かっているとはいわず、実は分かっていないのではないか?」と思った。

 

なぜ時間内にできなかったのか?というと、

やはり、( )や、掛け算・わり算を優先して解くときに、

「迷い(本当にここを優先して解いていいのか?)」みたいなものが生まれる。

だから結果として時間をロスしてしまっている。

 

その状態は、果たして

・( )を優先して解くこと

・足し算・ひき算より先にかけ算・わり算をすること

 

を“分かっている”と言えるのかどうか。。。

 

“分かっている”という認識はとても曖昧で、

自分が「分かっている」と思っているだけなのだと思った。

 

そして、この「分かっている」という認識は、

僕の「流し読み」という行為の原因でもある。

 

このプリント内のメッセージを「読む」という行為は

情報を取り込む、認識するという行為である。

それは、「聞く」という行為と重なる点があるように思う。

 

そう思うと、「分かっている」という認識が

「聞く」という行為にも、かなり大きく影響しているように思う。