昨日は、【STEP seasonⅤ】問いストーリー 〜対話ではじまる、これからの私〜
というイベントに参加しました!
イベント名にも「問い」という言葉が入っていますが、グループワークにて「サッカーの美しさってなんですか?」という問いから、さまざまな話が広がっていき、参加者のみなさんとさまざまな話ができてとっても楽しかったです!
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サッカーの美しさって?
僕はずっとサッカーをしてきた。
今もサッカーが大好きで、
サッカーの試合があればテレビで見ることも多い。
最近、サッカーを観戦していて思ったことを、
今日は書いてみようと思う。
久しぶりにサッカーの試合を見ると、
サッカーの判定に、ビデオ判定が導入されていた。
この制度の導入はかなり驚きで、
このビデオ判定を使ったスポーツは、
テニスくらいしか知らなかった。
この、ビデオ判定を見たときに、
すごく違和感を感じた。
ビデオ判定をすれば、
サッカーのルールにのっとった、
正しい判定が生まれる。
ルールを守り、ルールの上で、
正しい結果が生まれることは間違えない。
だからビデオ判定は、
ルールを守る上で大事な役割を果たしているのかもしれない。
けれど、これまでサッカーを親しみ、
サッカーを楽しんできた僕にとっては、
その制度の導入によって、
サッカーの楽しさが失われているような気がするのだ。
じゃぁ、僕は何にサッカーの楽しさを感じていたのだろうか。
絶対的な正しい結果が生まれることで
失われているものはなんだろう?と考えてみた。
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サッカーはミスが起こることが前提のスポーツであると思う。
手ではなく、足を使う時点で、
「うまくいかない」「できない」ことの方が多い。
パスだって、思った通りにできることの方が少なくて、
少しのズレも、周りがサポートしあって成り立つ。
だから、なんのズレもなく、すべてが完璧なタイミングで、
完璧なコースで、味方と呼吸があったプレーが生まれると、
それはすごく気持ちのいい気分になる。
きっと、サッカーの楽しさを支えているのは、
この「ミス」や「できないこと」という部分であって、
それを前提に、フォローし、支え合う部分なんだと思う。
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そうやって考えてみると、
僕にとってサッカーをより面白くしていることは、
「正しい結果」ではないということは確かだ。
ビデオ判定が導入される前までは、
審判のミスを、選手も、監督も、サポーターも
受け入れてきたのだ。
その、審判の間違えを受け入れてきたという事実は、
サッカーの楽しさの根底にある、
ミスを受け入れて、フォローしあうというところに繋がるように思う。
そしてその「受け入れる」ということは、
とっても優しいことのようにも感じられる。
サッカーの根底にあるものを
ミスも、できないことも受け入れるという「優しさ」だ ◯
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ルールはなんのためにあるのだろうか。
ルールはきっと手段にすぎない。
ルールを守ることが目的ではないと思う。
ルールはきっと、
サッカーをするプレーヤーが、
サッカーを観戦するサポーターが
サッカーを楽しむための手段にすぎない。
そして、サッカーの楽しさとはきっと、
ただ正確な判定から生まれる勝ち負けではなくて、
人間のミスや間違えを、受け入れながら、
試合を成立させるという敵・味方の共同の作業の上にある勝ち負けのように思う。
サッカーの根底にある「受け入れる」という精神が、
ルールを守ることにとらわれすぎることで、
失われてしまうような気がしている。