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べてるの家ドキュメンタリー映画 ベリー・オーディナリー・ピープル(V.O.P) 上映会のまとめ

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[不思議の家のべてる]

1995年から、回復した精神障碍者たちの生活拠点である「べてるの家」の日常を撮った『ベリー オーディナリー ピープル』というビデオの連作を作っている。圧倒的に面白いビデオである(と、作った本人が言っているのだから当てにならないが)。少なくとも、毎日を生きている日常が今までとは違った世界として見えてくる。

発端はプロデューサーの清水義晴さんとの出会いだった。早くに父親を亡くした清水さんは、若くして家業の印刷会社を継ぎ、社長として腕を奮ってきた。会社のため、従業員のためと、懸命に仕事をしてきたつもりだったが、ある日、社員たちの造反を受けた。それがショックだった。それから清水さんは、人が人として大切にされる企業のあり方を模索していった。そして、管理職から支援職へ、一人一職、一人一研究、ナンバーワンよりオンリーワンへなどと、様々な企業改革を進めていった。今から二十年以上も前のことである。

その清水さんが、15年ほど前、縁があって「べてるの家」と出会った。そしてそこにある、“弱さ”を大切にした 生き方の斬新さに感動した。清水さんは、そこに、自分が模索してきたものと重なるものを見た気がしたからだ。 そこでべてるに、本を出版しようと呼びかけた。

べてるのメンバーはびっくりした。精神障碍という病気を持った自分たちの存在が、いったい本にする価値があるのかといぶかった。こうして誕生したのが『べてるの家の本』であり、それは口づてに広がって、すでに一万数千冊を超えている。本の出版のために、或は本を出版してからも、清水さんはたびたびべてるを訪ねた。そして、いくつもの感動のシーンに立ち会った。だが、その面白さや素晴らしさは文字では伝え切れなかった。そこで映画を作ろうと思い立ち、私に協力を求められた。

私は「べてるの家」のことは何も知らなかったが、清水さんの話を聞いて一つだけ条件をつけた。感動的なシーンは 撮れませんよと清水さんに言った。清水さんはそれでいいと言う。それで私は引き受けた。その頃すでに私には、 いい映画や素晴らしい映画を作ろうという気が消えていた。対象が面白ければ、或は対象が何かを発信していれば、 それをそのまま撮れば、見る人はそれぞれに何かを感じとることができるだろうという考え方をしていた。

感動的なシーンを撮ろうと狙って待ち構えていると、撮る側の心性に歪みが生じてしまう。するとその歪みが、見る人に歪んだ観念を植えつけてしまうのを恐れたのだ。対象にカメラを向けて、ただだらだらと撮るのが私の手法だった。そしてそうした撮り方に、ビデオはフィルムより向いていた。

べてるの家」へは、何の準備も何の勉強もしないで出かけていった。たいていの記録映画の監督さんは、しっかりと事前の調査や勉強をして、自分なりの考え方や映画の構想を確立してから撮影の現場に乗り込む。しかし私は、そうしたやり方を好まない。何も知らない方が先入観を持たないですむからだ。何も知らないまま現場を訪れ、そこで自分が見て、知って、感じたことを、そのまま映像としてつないでいく。そのことで観客も多分、私と同じ距離感で現場に触れ、対象に迫り、何かを感じることができるのだと思っている。

それでも正直のところ、最初は、精神障碍者と呼ばれる人たちとどういう顔をして話せばいいのか戸惑いがあった。 差別や偏見を持っていけないと意識すること自体が、すでに差別する心の始まりだという自覚があった。それでいて、 そんな意識は拭いようもなかった。しかし「べてるの家」を訪ねてみると、そんな意識は忽ち払拭されてしまった。

べてるのメンバーたちはカメラを手くすねひいて待ち構えていた。到着するとすでに宴会の準備が整っていた。 どうやら、我々の歓迎の宴らしい。撮影の機材を置いて、ニコニコして席について、ビールを二口も飲まないう ちに、メンバーの自己紹介が始まった。あわてた。どうも私たちに向かって喋っているらしい。私たちは取材に 出かけて行ったのだからお客さんという意識がなかった。しかしその席には、お客さんらしいのは私たちしかい なかった。『べてるの家の本』の出版という体験をしていたべてるのメンバーたちには、語りたいことがたく さん溜まっていたのだ。あわててカメラを構えて、撮りはじめた。

その時の様子を、そのままつないだのが『ベリー オーディナリー ピープル』の予告篇その1である。 二泊三日の第一回ロケからの帰り道、清水さんから予告篇を作ってくださいと頼まれた。清水さんは予告篇を持って全国を行脚し、べてるの“映画”を作るための製作資金を集めよう、という心づもりだった。(清水さんの妄想はふくらんで、カンヌのグランプリを受賞した時に備えて、授賞式に着ていく羽織袴の心配までもしていた。)

私は、名刺代わりの予告篇を作ろうと思った。一つは、カメラに向かって自己紹介をして くれた映像をそのまま活かして、“私たちがべてるですよ”と観客に差し出す名刺である。もう一つは、 私がべてるのメンバーに差し出す名刺である。私がどんな感じ方をして、どんな映画を作ろうとしてい るのかを、まず先に、べてるのメンバーに知ってもらいたいと思ったからだ。それが、これからの映画づくりの、べてるとの長い付き合いには必要だと思ったからだ。

最初の清水さんの注文は十五分から二十分の予告篇だった。しかし、実際に編集をし始めるといっこうに短くならない。それよりも、そもそも短くする気が失せてしまうのだった。精神障碍でも、生活保護でも、それでも子ども生みたい! という山崎薫ちゃんの言葉をそのまま伝えたかった.。今は精神病であることを誇りに思っている! という坂本さんの破天荒な言葉もそのまま伝えたかった。すると、どうがんばったところで短い予告篇などはできっこなかった。長くてもいいですか、と清水さんに尋ねると、それでいいと言う。そこで60分の予告篇その1が誕生した。

初めて訪ねた「べてるの家」は、私が今までに出会ったこともないような異様な世界だった。そこには笑いが 渦巻いていた。自分の幻聴や妄想を、或は病気の発症している時のパフォーマンスを、明るく大きな声で語り 合い、自慢し、からかい、笑いあっていた。みんながいきいきと輝いていた。生きるエネルギーに満ちあふれ ていた。それが不思議でならなかった。

(もちろん、調子の悪い人は沈痛な表情で落ち込み、体調を崩した人は自ら浦河赤十字病院へ再入院していくの だが。しかし、再入院もべてるでは不名誉でも何でもない。ちょっとかかりつけの医師に見てもらい、薬をもら って、からだを休めるために別荘に出かけていくようなものだった。)

一度は絶望を味わった人たちがである。発病した時に、一度は、これで自分の人生は終わったと思った人たちが である。その人たちが、楽しそうに、幸せそうに暮らしている。それが不思議だった。

べてるの家」は北海道浦河町にある。人口一万六千人の小さな町である。千歳空港から苫小牧を経て、海岸線 をひた走って二時間半。森進一のヒット曲で有名な襟裳岬の少し手前である。一帯は、日高昆布と競走馬サラブ レッドの産地である。新聞やテレビでも紹介されて、病気で苦しんでいる人が全国から集まってくる。

浦河赤十字病院精神科の川村先生の診断を受け、入院し、退院してから「べてる」のメンバーになる。「べてる」には不思議な“場の力”がある。いや別の言い方をすると、べてるのメンバーが作り出す場の力が、べてるの“不思議さ”を演出しているのかもしれない。

六年も七年も被害妄想で苦しみ 、人間不信に陥り、引きこもりをしていた人が、「べてる」に来たとたんに、数か月もしないうちに、人の前に出ることが出来、自分のことや病気のことを語り出す。カメラを向けるとごく自然に語ってくれる。その人は、カメラの前で、今は、人の前で話し、人の話を聞き、人とコミュニケーションが取れる自分をとても幸せに感じている、と語ってくれた。もし病気でなかったら、こんな幸せは味わえなかっただろう、とも言う。かつて、病気と戦い、自分を責め、周りを傷つけていた頃は、こんな自分を想像することもできなかったと言う。

しかしこれは、川村先生が名医であるからでもなんでもないと私は思った。病院での治療や薬が効いたわけでもない。 私は、それが「べてる」の“場の力”だと思っている。メンバーと一緒にずっと「べてるの家」を支えてきた医療 ソーシアルワーカーの向谷地(むかいやち)さんは、予告篇その1で、それを「べてるはホクホクした黒土のよう なところです」と語っている。

べてるには、いい人ばかりがいるわけではなく、怒りっぽい人も、だらしない人も、騒々しい人も、風呂の嫌いな人も、実にいろいろの人がいる。そしてその人たちが、それぞれの味を出し、それぞれの味を活かして「べてる」という場の豊かさを作り出しているように感じられる。大原則は、ありのままの自分をそのままを受け入れようという考え方である。それが、他人を受け入れ、支え合うという次の関係性を生み出していく。

最近、新しく入ってきたメンバーにインタビューすると、誰もが “べてるに来て安心できた”とか、“ここには 自分と同じ匂いや同じ色の人がいるなと感じた”と語る。どうしても自分の病気を認めたくなかった人や、家族が 自分の子どもの病気を世間から隠したくて病気と認めてもらえなかった人や、或は病院の扱いがひどくて転々と 変わったり、入院するのをかたくなに嫌っていた人たちが、べてるに来ると、すっとなじんで、なごんで、居つい てしまう。自分を守っていた固くて厚い殻を自然に脱いでしまうのだった。

病気があっても、あんなに楽しく幸せそうに生きている人たちを見て、ここでなら自分もやっていけそうだと安心するようだ。誰に強制されるのでもなく、またそうしろと薦められるのでもないのに、ここに来るとありのままの自分を愛おしみ、認めてやることができるようになるようだ。

予告篇その1で、日赤病院精神科の川村先生は「治せない医者、治さない医者を目指しています」と語っている。 川村先生も、若い頃は、患者さんの病気を治すことに一所懸命な良い医者を目指していたという。しかし患者さん に治ることを期待させ、治ることを強制する医療に虚しさを感じて、病気を持ったままでも楽しく幸せに生きられる 道はないものかと模索しはじめた。

精神病というのは、医療の世界に収まり切れない部分が途方もなく大きいと川村先生は語る。確かに精神病は、 発病のプロセスからして、その人の暮らしや生き方や人間関係に大きく左右されている。それを、狭い医療と いう世界だけで解決しようとするのには限界があるという気づきである。そこから、例えば、幻聴を消すこと のために一生を費すよりも、たとえ幻聴があっても、その病気を抱えたままで毎日をいきいきと暮らせるよう な幻聴とのつきあい方を身につけようとする。

べてるでは、幻聴は“幻聴さん”と呼ばれている。幻聴を敵にしないためである。生活の中の色どりとまでは言えないにしても、なんとか “幻聴さん”と上手につきあえないものかと工夫していく。他人の前で自分の幻聴や妄想のことをおおっぴらに語ることはまず手始めである。他人の話を聞けば、自分のつきあい方の参考にもなる。べてるでは、毎年の総会の席で「幻聴&妄想大会」があって、ユニークな幻聴や妄想の持ち主には賞が与えられる。幻聴に限らず、川村先生はよくメンバーに向かって、“病気は治ってないけど、ずいぶん良くなったよね”という言い方をしている。

しかし、ありのままの自分を受け入れるということは、安直な現状肯定やプラス志向とは決定的に異なるような気がする。ありのままを認めるのは、今のままでいいということでもない。ありのままの自分を受け入れるには修行が必要なような気がする。多分、その修行が病気の体験だったのだろうと思う。向谷地さんはメンバーによく、“いい苦労をしたね”とか“今、苦労してるのがいいんだよ”という言い方をしている。多分、その苦労が修行なのだろうと思う。

べてるのメンバーの日常を見ていると、彼らは、瞬間瞬間を輝いて生きているんだなあとつくづく感じる。なにかの ためにとか、なにかの目標を目指してせっせと生きているのではなく、ただ輝いて生きているのである。予告篇その2 のべてるの総会の場面で、メンバーの山崎薫ちゃんが「生きてきてよかった」と語る姿がある。私は、なにか憂鬱な ことやつらいことがあるとすぐにその場面を思い出す。

予告篇その1では、働き者の坂本さんが、ゴミ入れのポリバケツに無駄のないビニール袋の取り付け方をカメラに向かってていねいに説明してくれる。ふだんは寡黙な住岡さんが黒い煙を出さないためにいかに気を配ばってゴミを燃しているのかを熱っぽく語ってくれる。そんな姿に、メンバーたちが生きている今という時間の重さを感じた。メンバーたちが瞬間瞬間を実にていねいに生きている、それが私には輝きとして感じられたのだ。

予告篇その1は、余儀なくして長い長い予告篇になった。しかしその2からは、私は意図して長い予告篇を作ろうと考えた。そして予告篇はその8までを数えている。だいたい一時間から一時間半、短くても三十五分、最長で二時間の予告篇である。ギネスブックに載せてほしいくらいである。

本編という一本の作品を作ろうとすると、どうしても完結性が求められてくる。作る側も見る側も完結性を求めてしまう。 感動がほしくなり、結論がほしくなり、意味づけがほしくなり、素晴らしさがほしくなり、立派さがほしくなる。 しかし、毎日毎日をただひたすらに生きていることには限りがない。

生きることは、完結しない。生きることは死ぬまで続く。瞬間瞬間を輝いて生きているメンバーたちの姿を映像として定着していくのには、完結性が邪魔になったのである。生きることは、毎日毎日変わっていく。べてるもどんどん変わっていく。だから“べてるはこうです”とは、いつだって言い切れない。だからいつまでも予告篇なのだった。

べてるは素晴らしいという讃歌ではなく、ただ生きているべてるのメンバーたちの今を描くことで、同じ生きている時間を共有したいと思ったのである。そして今、予告篇その9も計画中である。

 

引用元: 


 

 

  • 『ベリー オーディナリー ピープル』予告篇その1 (60分)
    『ようこそ べてるの家!』
    カメラが「べてるの家」を訪ねると、メンバーが一人ひとり、カメラに向かって自己紹介をしてくれた。精神障碍者であることを誇りに思っていると言う坂本さん。障碍者でも生活保護でも赤ちゃんは産めるんですと語る山崎さん。「希望者は申し出てください、みんなのパパになります」と下野くん。入院歴三十四回という記録を持つアル中の向井さん。一等航海士だった向井さんは、ずっと“後悔”ばかりしているそうだ。

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  • 『ベリー オーディナリー ピープル』予告篇その2 (90分)
    『三度の飯よりミーティング』
    べてるでは、うまく行かなかったり困ったり、問題が発生すると盛り上がる。その度にメンバー全員でえんえんと議論して、それも笑いのうちに話が進んで、立派な結論はいっこうに出てこないのだが、自然に問題解決の方向へと流れが生まれる。どんなに深刻な議論をしていても、なぜか笑いが絶えない、実に不思議なミーティング風景である。

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  • 『ベリー オーディナリー ピープル』予告篇その3(120分)
    『そして伊吹さんがいなくなった』
    一九九五年春、「伊吹光彦社会復帰大プロジェクト」が始った。夜間に非常ベルを鳴らしたり、消火器を振り回したり、自殺未遂をくり返したり、病院をさんざんてこずらせてきた伊吹さんを、もう一度、川村先生や向谷地さんが看護婦さんたちと一緒に、伊吹さんもプロジェクトチームに入れて付き合い直そうとする。「伊吹はドロボーするからイヤだ!」と反対していたべてるのメンバーも、伊吹さんを受け入れてくれた。はじめは神妙に、そして自由に行動できる喜びを手に入れた伊吹さんだったが・・・。

 

  • 『ベリー オーディナリー ピープル』予告篇その4 (90分)
    『安心してさぼれる会社づくり』
    浦河赤十字病院のゴミ回収や生協の掃除、紙おむつの配達や栄養科の食器洗いなど、べてるのメンバーは地域の人たちの困っているところへ出かけていっていろいろな仕事を開拓する。隙間産業は大繁盛。しかし、あくまでもべてる流。けっして無理をしたり、頑張ったりはしない。なにしろ「安心してさぼれる会社づくり」がべてるのモットーなのだから。

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  • 『ベリー オーディナリー ピープル』予告篇その5 (90分)
    『キヨシどん斯く語りき』
    べてるの最初からのメンバーである早坂潔さんが出張販売に行くと、そのキャラクターのおかげで不思議と昆布がよく売れる。その早坂さんが、しゃべって、しゃべって、しゃべって。90分間しゃべり続けます。AVビデオの借り方から、商売の秘訣まで。

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  • 『ベリー オーディナリー ピープル』予告篇その6 (35分)
    リハビリテーション商売』
    メンバーのひとりの失敗がきっかけに自前で昆布を売ろう! とべてるの商売が始まった。商売だから、役場の福祉課や保健所に行くのではなく、町の漁協や観光課に相談に行った。商売だから、苦労が多い。しかし、やらされてやる仕事ではないから、昆布の袋づめも販売も、おもしろくて、たのしくて、それがべてるのエネルギーの源になっていく。

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  • 『ベリー オーディナリー ピープル』予告篇その7 (50分)
    『96年秋、スケッチ・オブ・浦河』
    浦河という地域にすっかりなじんでいったべてるのメンバーたちのスナップ集。入院中はお酒を飲まないので体調のいい一級山菜士の神田さんは、お月見のススキをJRの土手からとってきてあちこちに配っている。介護用品の店「ぱぽ」も病院のすぐそばに店を構えて、店長の山崎さんはいつもお店で横になったまんまの店番。村上さんは、開店してから車イスを十台も売ったそうだ。

 

  • 『ベリー オーディナリー ピープル』予告篇その8 (60分)
    『さをり in 浦河』
    第五回「いのちを活かすフォーラム」は、「さをり織り」の城みさをさんを迎えての講演会とファッションショー。「さをり」は、自分の思いや気持ちを素直にぶつけ、織り方が自由で決まりがないのがべてるの生き方と共通している。はじめはモデルになることを恥ずかしがっていた成田のカアさんも、ロックのリズムに乗って舞台の中央へ。「たのしかった! 来年もやるベ!」と成田さん。

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