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【その名は、ギリヤーク尼ヶ崎】 “語ることができてしまったら、別に踊らなくたっていいじゃない”

ハートネットTVで、伝説の大道芸人ギリヤーク尼ヶ崎さんが特集されていました。

 

ギリヤークさんの踊りをみて、

かなり心が動かされました。そして、公演を終えた後のギリヤークさんの表情がとても心に残っています。

最後のシーンは、またいつもの公園でひとり稽古がはじまるシーンは、ギリヤークさんが、生きてきた、そしてこれからも生きていく、その日常がただ映し出されていて、とってもいいシーンでした。

 

番組のディレクターさんへのインタビューにこんなことが載っていました。

 

――ギリヤークさんは高齢で病気で、満身創痍の体なのにも関わらず、なぜ踊り続けるのでしょうか?

その質問、僕も取材中に100回くらい聞いているんですよ(笑)。でも、核心とも言えるはずの答えは一切返してくれない……。僕自身は、彼の振る舞いや言葉の端々から、「語ることができてしまったら、別に踊らなくたっていいじゃない」「まず踊りを見て、それぞれが感じたことが答え」というように解釈しています。

 

 

 

ギリヤークさんの踊りには、なにかメッセージがあるわけでもなく、意味があるわけでもない。その踊りに触れ感じることで、今の自分が映されて、自分の中で感情が溢れてくる。

 

べてるの家の映画、ベリーオーディナリーピープルの監督である、四宮鉄男監督は、こんなことを言っています。

 

私は「べてるの家」のことは何も知らなかったが、清水さんの話を聞いて一つだけ条件をつけた。感動的なシーンは 撮れませんよと清水さんに言った。清水さんはそれでいいと言う。それで私は引き受けた。その頃すでに私には、 いい映画や素晴らしい映画を作ろうという気が消えていた。対象が面白ければ、或は対象が何かを発信していれば、 それをそのまま撮れば、見る人はそれぞれに何かを感じとることができるだろうという考え方をしていた。

(愚鉄パラダイスより)

 

最後に、ギリヤークさんと弟の会話のシーンで「一生懸命ただ踊ってきただけです。その中に、生きるということ全部含めて。」「一生懸命生きたっちゅうことですよ」と言っているように、べてるの人たちもまた、いろいろな苦しや、悲しみを感じながらも、「一生懸命生きている」のだと思います。その姿が、V.O.Pにもただ映し出されているのだと思います。

 

ギリヤークさんの踊りが、

べてるの人たちが、

僕を映してくれるように、

僕もただ、何者になるわけでもなく、

ただただ生きているその姿が、

他人を映し出し、誰かに気づきや学びをもたらす。

 

僕らはきっと今のそのまんまで、

一生懸命生きているだけで、

きっとすでにもう誰かにたくさん与えている。

 

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