何かができるようになったとき、
何かがわかったとき、
何かに気づいたとき、
できた存在として、
わかった存在として、
気づいた存在として他者と関わってしまうと、
相手との距離が生まれるように思う。
何かができることとか、
わかることとか、
気づくことよりも、
それを通して、
また新たな問いと出会うことを大切にしたい。
相手との「距離」をうまく言葉にすることができないのだけれど、
できることや、わかることをゴールとしたら、
そこで完結してしまう。
完結するのではなく、
できたことから、
気づいたことからまた新たな問いに出会う。
いつも過程にあり、
いつも問いを通して、
相手と関わっていたい。
自分ができたと思い、
わかったと思い、
そこで完結させたとしても、
きっとそれは分かったつもりでしかないのだと、
自分にいつも言い聞かせておきたいものです。
そして、完結させるということは、
そこから、それ以上生まれるものはないのだということを、
いつも心に留めておきたい。
いつもできないことがあり、
わからないことがある。
そしてそこには問いがある。
いつも過程であるからこそ、
どこまでも遠くに行ける。
だからこそ、僕たちの可能性は無限大なのだと思いました。
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いつも過程にいることは、
それは「不完全」と言い換えることができるかもしれない。
それはできない状態、分からない状態、
何かが不足している状態、不安定な状態、
だからこそ、そこには「問い」が生まれる。
この不完全さをどうしていくのか?
なぜ不完全なのか?
その「問い」が僕らを、僕たちの想像のできない遠〜くまで運んでくれる。
「わかった(わかったつもり)」
「できた(できたつもり)」
「目的」
「目標」
こういうものが、僕たちの「不完全な状態」を見失わせる存在になりうる。
(決して、すべてがそうではないけれど。)
「わかったつもり」になり、
「できたつもり」になり、
「目的」「目標」にとらわれ、
自分の「不完全さ」を見失ったとき、「問い」も失う。
そして、問いを失うことは、
自分の可能性を縛りつけることなのかもしれないな。
と思いました。