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そのまんまたろうのブログ

そのまんまこそ本物だ。自分のそのまんまを、受け入れ、認め、ゆるし、愛しています。

Sonomamma Taro no Blog

そのまんまがあるだけ。そのまんまを、受け入れ、認め、ゆるし、愛しています。

いつも不完全。いつも過程。

 

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何かができるようになったとき、

何かがわかったとき、

何かに気づいたとき、

 

できた存在として、

わかった存在として、

気づいた存在として他者と関わってしまうと、

相手との距離が生まれるように思う。

 

何かができることとか、

わかることとか、

気づくことよりも、

それを通して、

また新たな問いと出会うことを大切にしたい。

 

相手との「距離」をうまく言葉にすることができないのだけれど、

できることや、わかることをゴールとしたら、

そこで完結してしまう。

 

完結するのではなく、

できたことから、

気づいたことからまた新たな問いに出会う。

 

いつも過程にあり、

いつも問いを通して、

相手と関わっていたい。

 

自分ができたと思い、

わかったと思い、

そこで完結させたとしても、

きっとそれは分かったつもりでしかないのだと、

自分にいつも言い聞かせておきたいものです。

 

 

そして、完結させるということは、

そこから、それ以上生まれるものはないのだということを、

いつも心に留めておきたい。

 

いつもできないことがあり、

わからないことがある。

そしてそこには問いがある。

 

いつも過程であるからこそ、

どこまでも遠くに行ける。

だからこそ、僕たちの可能性は無限大なのだと思いました。

 

** ** **

 

いつも過程にいることは、

それは「不完全」と言い換えることができるかもしれない。

 

それはできない状態、分からない状態、

何かが不足している状態、不安定な状態、

だからこそ、そこには「問い」が生まれる。

 

この不完全さをどうしていくのか?

なぜ不完全なのか?

 

その「問い」が僕らを、僕たちの想像のできない遠〜くまで運んでくれる。

 

「わかった(わかったつもり)」

「できた(できたつもり)」

「目的」

「目標」

こういうものが、僕たちの「不完全な状態」を見失わせる存在になりうる。

(決して、すべてがそうではないけれど。)

 

「わかったつもり」になり、

「できたつもり」になり、

「目的」「目標」にとらわれ、

自分の「不完全さ」を見失ったとき、「問い」も失う。

 

そして、問いを失うことは、

自分の可能性を縛りつけることなのかもしれないな。

 

と思いました。