きっと「一生青春」していたいのだと思います。
でも、「一生青春」というのは、
いつも華やかで、やりたいことやって、
自由に、きらきら生きていくのとは少し違うのだと思うな。
やりたいことやってます。という自分の中にも、
どこか、見なければいけない問題や、
自分の中で向き合わなければいけないことを避けている自分もいる。
自分にとって必要な問題や悩みと出会うこと。
そして、その問題や悩みを、
自分自身の課題・テーマとして丸ごと受け止めて生きて行くことが、
青春のようなもので、
「一生青春」という言葉は、
意外にも難しくて、ちょっぴり残酷で、
でも、一生青春していたい。
とにかく、問題や悩みがあることは、
順調であるというような感じがしてきました!
伊藤整 「青春」より
人の生涯のうち、一番美しくある青春の季節は、おのずから最も生きるにむずかしい季節である。
神があらゆる贈り物を一度に人に与えてみて、人を試み、それに圧し潰されぬものを捜そうとでもしているかのように、その季節は緑と花の洪水になって氾濫し、人を溺れさせ道を埋めてしまう。
生命を失うか、真実を失うかせずに、そこを切り抜ける人間は少ないであろう。
人の青春が生に提出する問題は、生涯のどの時期よりも切迫しており、醜さと美しさが一枚の着物の裏表になっているような惑いに満ちたものだ。
モンテーニュが“人は年老いて怜悧に徳高くなるのではない。ただ情感の自然の衰えに従って自己を統御しやすくなるだけである”と言っているのはたぶんある種の真実を含むことばである。
青春には負担が多すぎるのだ。
しかも、その統御しやすくなった老人の生き方をまねるようにとの言葉以外に、どのような教訓も青春は社会から与えられていない。
それは療法の見つかるあてのない麻疹のようなもので、人みながとおらなければならぬ迷路と言ってもいいだろうか。
もし青春の提出するさまざまな問題を、納得のゆくように解決しうる倫理が世にあったならば、人間のどのような問題もそれは、やすやす解決しうるであろう。
青春とは、とおりすぎれば済んでしまう麻疹ではない。
心の美しく健全なひとほど、自己の青春の中に見いだした問題から生涯のがれえないように思われる。
真実な人間とは自己の青春を終えることのできない人間だと言ってもいいであろう」