聴くことの可能性を感じている今日この頃。
偶然、ツンドク(買ったのに読まずに積んである本のこと。笑)していた
ミヒャエル・エンデのモモを読んでいました。
すると、、、、、
モモって、まなゆいびと(まなゆいを学んでいるのこと。笑)やないかーい♩
ということで、めちゃくちゃ驚きました!
身近な人々の間では、このセリフは、しだいに決まり文句になりました。人が「お元気で」とか、「いただきます(ごちそうさま)」とか、「神のみぞ知る」とかと言うのと同じように、人は、またあらゆる機会に、「モモのところへもお行き」と言うのです。
すべての人に良い助言ができるほど、モモがとっても賢かったから? 人が慰めを必要とするときに、常に適切な言葉を見つけたから? モモは賢明で適切な判断を下せたから?いいえ。あらゆるほかの子どもと同じ程度にしか、モモもできやしません。としたら、モモは人をいい気分にしてくれる何かができたのでしょうか。例えば特別に美しく歌を歌うことができたのでしょうか。または、モモは何かの楽器を演奏することができたのでしょうか。はたまた、しまいには、どこかのサーカスで暮らしていて、踊れたり、アクロバット芸を披露したりすることができたのでしょうか?いいえ。そんなことできやしませんでした。ひょっとしたら魔法が使えたのでしょうか? モモは、すべての心配事や困ったことを消し去ってくれる何か秘密の言葉を知っていたのでしょうか? 手相を占ったり、未来を予言したりすることができたのでしょうか?
全部違います。 他でもなく、ちっちゃなモモにできたことというのは、聴くということでした。なんだ、そんなことか、と多くの読者は言うかもしれませんね。聴くことなんて、誰でもできるじゃないか、って。でも、それは間違いです。
実際に聴くということは、本当にわずかの人にしかできません。モモのように、聴くことに長けている子なんていうのは、ほんとうにいないものです。 モモに聴いてもらうことで、バカな人々も突然非常に賢い考えが浮かんでくるのです。とはいえ、モモが、その人にそうした賢い考えが浮かぶようなことを言ったり、質問したりするわけではありません。モモはただそこに座って、注意深く共感してただ聴くのです。その際、モモは、大きくて黒い目でその人を見つめます。その人は、自分の中に隠れていたと予感することすらできなかったような考えが、突如、浮かんでくるのを感じるのです。 モモに話を聴いてもらっていると、困り果ててどうしていいか分からない人々は、突如、自分が何を欲していたのかをきちんと知るようになるのでした。また、恥ずかしがり屋さんは、突然自由を感じ、力強さ(勇気)を感じます。また、不幸な人や滅入った人は、希望に満ち溢れて、喜びいっぱいになるのです。もし誰かが、「自分の人生は完全に間違いで、無意味だったんだ、自分なんて数千の人間の一人に過ぎなくて、そもそも誰にも相手にもされず、壊れた器のようにすぐに取り替えられてしまうんだ」、と思うとき、その人はモモのところに行き、そのすべてをモモに話すのです。すると、しゃべっているうちに、不思議な仕方で、自分が根本的に間違いだったということに気付くのです。そして、その人がそうであるように、すべての人間の中で自分は一人だけなんだ、だから、その人なりに、世界にとってとても大切なんだ、ということに気付くのです。こんなふうに、モモは聴くことができたのです。
引用:モモ ミヒャエルエンデ作
ミヒャエル・エンデさんも、
“ただ聴くこと”を大切にしてたのかもしれませんね〜♩
わんこも読書です♩