そのまんまたろうのブログ

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1月の振り返り その1

1月の振り返り

 

今年の年末年始は、今までで最も年越しの実感が湧かない年末年始となったような気がする。

 

昨年を振り返ってみると、

らくだの学習はなかなか思うように進まなかった。

 

ただ、らくだの学習が思うように進まなくても、

らくだの学習を通して学んだこと、気づけたこと、

さらにはこれからやっていきたいと思えることなど、

プリントの学習を通して生まれてきたことが

たくさんあったように思う。

 

それがこの学習の面白いことだと思うし、

学習というものはそういったものなのだとも思う。

 

もちろんプリントに取り組めない日々や、

合格できない日々は心地よいものではないし、

「もっとプリント取り組めた日があっただろ」とか、

「ペース遅すぎるだろ」とか思うこともけれど、

この1年を振り返ってみても、

らくだのプリントを続けようと取り組んできてよかったなと思う。

 

 

昨年は、子どもの学習に関わる場を得たことも、

らくだの学習から学ぶこと、気づくことをさらに深めることができた要因なのだと感じている。

 

らくだのプリントとは直接関係なくても、

自分の環境がこうやって変化すれば、

これまで積み重ねてきたらくだプリントの体験が、

また違った見え方や、意味や気づきを見出してくるのだと

実感した大きな機会だった。

 

ただ取り組むこと、「できない」と思える自分を受け入れて、切り替えて続けていく。

ただそれだけで、自然といろんな価値が見出されていく。

 

そのことをいつでも実感していられたらいいのだけれど、

その実感はいつも味わっていられるわけではないし、

続けていると必ず、できない行き詰まりがあって、

そういうときに意味とか気づきとか求めてしまいがちである。

 

だからこそ、つながりの中で学習を続けていくことの重要性を感じる。

もし自分一人だったら、できない行き詰まりの中にいられなくて、

もうプリントはやめてたかもしれない。

 

できない行き詰まりの中でもやめずに、続けられたのは

自分の続けようとする意志ではあるのだけれど、

それはきっと、つながり(寺子屋塾のみなさん)の中に身を置いていたからにちがいない。

 

これも、セルフラーニングは一人ではできない。という言葉におさめられるように思う。

 

そんなつながりと、つながりを継続できるシステム・教材があることが

もう学習を始めて3年になるので当たり前になってきてはいるのだけれど、

3年経ったからこそ、このつながりの中で学習できていることが

すごく貴重なことなのだと感じられるようにもなった。

 

まだ中学プリントではあるけれど、

1日1日、1枚1枚のプリントと、そして自分自身と向き合っていく日々を

これからも積み重ねていけたらと思う。

 

寺子屋塾のみなさま、本年もどうぞよろしくお願い致します!

 

 

 

なんでも自己決定すればいいのだろうか?

なんでも自己決定すればいいのだろうか?

 

 

自分で決めることはとても重要だと思う。

じゃあ、「なんだって自分で決めなさい」というように、

自己決定を尊重することが果たして重要なのだろうか?

 

その問いに対して、YESと

自信を持って言うことはできない自分がいる。

 

というのは、

「どのように」自分で決めるのか?

「何をもって」自分で決めるのか?ということが、

自己決定を支える重要な要素なのだと感じる。

 

 

スクールの子どもたちとの関わりを通してそんなことを強く感じている。

 

 

** ** ** **

 

 

スクールで子どもの学習に関わるようになって、

子どもの学習の状況を観察する中で、

子どもたちの自己決定の様子に目がいくようになった。

 

らくだメソッドの教材では、「記録表」の存在が、

この学習者の自己決定を支える重要なツールとなっている。

 

ただ、今のスクールではらくだ教材は使用できない中で、

どうしたらこの記録表での役割を見出せるのか?ということを考えていた。

 

まずこの2ヶ月で、学習した教材をストック&記録していくことを試みてみた。(子どもたちが取り組んだプリントを、1日の終わりに必ずまとめる)

 

 

まとめ方は、1日の最後にやったプリントをまとめて、その最上部のプリントに ・日付 ・プリントの内容(因数分解とか) ・どのくらいできたか(◎:答えをみないで完全できた ・△:できない箇所あり ・×:まったくできない) を書いておく。

 

いきなり子どもに学習した教材をストック&記録してもらうのはハードルが高いので、まずは僕がこっそりとはじめてみた。そして、翌週子どもと会ったときは、その記録をみながら今日はどこをやろうか?(先週・先々週はここやったね)ともちかけてみる。

 

らくだの記録表ほど学習の記録の正確性はないけれど、この学習記録を共有することで、子どもたちとの関係性や、子どもの学習に向かう姿勢が変わったように僕は感じている。

 

今までは、子どもが学習内容を自己決定していたとしても、その日その日の気分で教材を決めていたように感じるけれど、自分の学習の記録をもとに、今日の自分の学習の選択をしていく経験はこれまでになかった「選択方法」なのだと思う。

 

先週の記録をもとに、今日の学習の選択をすれば、自分の選択の自覚も深まる。今までは適当に、気分で決めていた選択が、少しだけ今の自分に最適だと感じる選択につながっていく。そこに選択の自覚が生まれてくる。

選択への自覚があれば、学習に対する姿勢も変わってくる。

 

 

本当にわずかなことなのだけれど、

そうやって少しだけ、学習の環境(仕組み)を変えるだけで、人の学ぶ姿勢って自然と生まれてくるのかもしれないと感じている。

 

自分のこれまでの軌跡がより鮮明残されていれば、

自分のこれから進みたい方向が自分の中に見えてくる。

自分の進みたい方向がイメージできたら、

自然と進みたくなる。

 

それが学習の姿勢に現れてくるだろう。

 

だからこそ、「自己決定」を支える

「どのように」自分で決めるのか?

「何をもって」自分で決めるのか?という視点で、

子どもの学習に関われたらと思う。

 

映画『あん』 徳江さんの言葉

 

あんを炊いているときの私は、いつも小豆の言葉に耳をすましていました。それは小豆が見てきた雨の日や晴れの日を想像することです。


どんな風に炊かれて小豆がここまでやってきたのか、
旅の話を聞いてあげること、そう聞くんです。


この世にあるものは全て言葉を持っていると私は信じています。
日差しや風に対してでさえ、
耳を澄ますことができるのではないかと思うのです。


・・・


私たちは、この世を見るために聞くために生まれてきた。
だとすれば、何かになれなくても
私たちは、私たちには、生きる意味があるのよ。

(映画 「あん」)

 

an-movie.com

12月のふり返り

今年も残りわずかとなりました。
21日が返送日でしたが、遅くなって25日となってしまった。

返送日にきっちりと返送できるときもあれば、
返送日よりも遅れて返送するときもある。

返送日があることで、今の自分のプリントに対する姿勢が確かめられる。毎日プリントに取り組んでいれば、返送日が近づいてくることの自覚もできるけれど、毎日プリントに取り組めなければ、その実感もまた少なくなる。

だから返送も遅れてしまう。

教材を送るだけのことなのだけれど、
そこにも自分を自覚できる仕組みがあることが
なんかうまくできているなーと思ったりする。

** ** ** **

学習の記録を積み上げていくことで、関係性が変わる

スクールで子どもの学習に関わるようになって、らくだメソッドの教材は使用できない中で、どうしたららくだの学習を生かせるのか?ということを考えていた。

まずこの2ヶ月で、学習した教材をストック&記録していくことを試みてみた。(子どもたちが取り組んだプリントを、1日の終わりにまとめる)

まとめ方は、1日の最後にやったプリントをまとめて、その一番最上部のプリントに ・日付 ・プリントの内容(因数分解とか) ・どのくらいできたか(◎・△・×) を書いておく。

いきなり子どもにやってもらうのはハードルが高いので、まずは僕がこっそりとはじめてみた。そして、翌週子どもと会ったときは、その記録をみながら今日はどこをやろうか?(先週・先々週はここやったね)ともちかけてみる。

らくだの記録表ほど記録の正確性はないけれど、この学習記録を共有することで、子どもたちとの関係性や、子どもの学習に向かう姿勢が変わったように僕は感じている。

今までは、その日その日の気分できっと教材を決めていたのだけれど、自分の学習の記録をもとに、今日の自分の学習の選択をしていく経験はこれまでになかった「選択方法」なのだと思う。

先週の記録をもとに、今日の学習の選択をすれば、自分の選択の自覚も深まる。今までは適当に、気分で決めていた選択が、少しだけ今の自分に最適だと感じる選択につながっていく。そこに選択の自覚が生まれてくる。
選択への自覚があれば、学習に対する姿勢も変わってくる。

そして、子どもにとって自分の学習の記録をストックしてくれること(次のステップは、自分でストックしていくことだと思うけど)共有してくれることは、指導者との関係性も変化させるようにも思う。

まずは指導者が、できる記録もできない記録も、やらなかった記録も、ただ大切にストックしておく。その行為って、ただストックしているだけのように見えるけど、子どもにとっては、今のできない自分、学習をやらないでいた自分、プリントをくしゃくしゃに丸めた自分をも受けいれて、大事にしているのだということが、伝わるような気もする。

本当にわずかなことなのだけれど、
そうやって少しだけ、学習の環境(仕組み)を変えるだけで、人の学ぶ姿勢って自然と生まれてくるのかもしれないと感じている。


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自分の学習状況はというと、ようやく因数分解をクリアした。
ようやく2次関数に入り、中学の学習はあともう一息だ。

因数分解は、なかなかクリアできず、「これ本当にクリアできるの?」とか、
「クリアできたみんなすごいなー。」という気持ちがあったけれど、
結果的には、クリアできた。

らくだのプリントをやっているとよくこういうことがあるのだけれど、
「これ本当にクリアできるのかよ?」という自分というのは、
とてもいい加減なものなのかもしれない。

何をもってそれを言っているのだろうか?笑

「これ本当にクリアできるのかよ」とか、
「自分にはできない」とか、

そう捉えてしまう自分っていうのは、大変いい加減であって、
「今の自分」の捉え方や、
時間の捉え方、
能力の捉え方、
いろんなことがいい加減に、自分の勝手な解釈で済ませている。

そして、それを自分自身にだったらまだいいのだけれど、
他者に対してもそういういい加減さを発揮してしまう。

でも、自分自身にしていることは、
他者にもしてしまうものだと思うから、
やっぱり自分のそういう、いい加減な勝手な解釈に少しずつ気づいていけたらいいなーと思う。

なんのために勉強しますか?

なんのために勉強しますか?

 

子どもたちが、勉強する意味がわからない。とか、

なんのために勉強するのかわからない。と言って、

なかなか勉強に気持ちが向かない状況は多くあるように思う。

 

その時に、なんて答えればいいのだろうか?という話になった。

 

その答えは色々あると思うけれど、

今の僕にとって自分自身が納得いく言葉をここに残しておこうと思う。

 

「意味」というのは、

いくらでも見出せるものなのだと思う。

 

それは勉強だけでなく、
すべてのことにおいていえる。

たとえば「食べる」ということでも。

 

生きていくために食べる。

美味しいから食べる。

食べたいから食べる。

楽しい時間を誰かと分かち合うために食べる。

野菜を作る生産者を応援したいから食べる。

健康でいたいから食べる。

 

食べるということでも、何百もの意味を見出せるのだと思う。

意味というものは、そういうものなのだと思う。

 

だから、勉強する意味だって、何百もの意味が存在するのだと思う。

 

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じゃぁ、勉強する意味がわからない。とか、

なんのために勉強するかわからない。と言う子どもにどのように対応すればいいのだろうか?

 

たとえばゲームが大好きな子どもがいるとする。

その子に「なんのためにゲームをやるの?」と聞いたとする。

それは、「楽しいから」とか、「夢中になってできるから」と答えるだろう。

もしかしたら、「意味なんてないよ」と答えるかもしれない。

 

そもそも、「ゲームをする」という行為をする前に、

子どもたちは、ゲームをすることの意味を考えたりはしないだろう。

 

「ゲームをすること」は、「なんのために」という意味とは切り離されているのだと思う。

 

きっと「勉強をすること」も、この「ゲームをすること」と同じなのだと思う。
意味は後から生まれてくることだってある。

 

だから、勉強する意味を子どもにどのように答えられるか?という視点よりも、

どうして、「勉強する意味」を子どもは考えてしまうのだろうか?

その「意味」を求める背景には、何が隠されているのだろうか?という視点で、

子どもと向き合うことが大切なのかもしれないと思った。

 

振り返ってみると、僕がスクールで子どもたちと関わっていて、

「なんで勉強するの?」という言葉に出会う時、

それは、その子が本当に苦手な教科をやっている時であったり、
なかなか集中できていないときなのだと思う。

きっと、その言葉の背景には、その子なりの行きづまりがあるのだと思う。

 

そういう視点で子どもの言葉を受けとってみると、

自分が子どもに対してどのように関わったほうがいいのか、関われるのか。ということがすこし見えてきたりする。

 

「なんのために勉強しますか?」という言葉の字のままに、その答えを探すのではなく、

その問いが、その子からどうして生まれてくるのだろうか?

という視点こそ、もしかしたら大切なのかもしれない。と思った。

自然農という学び場

田んぼの師は、
もう10年以上は自然農でお米を育てられている方なので、
僕らと比べたら経験値はまるでちがう。

今年の僕らの田んぼの実りはなかなかよく、
実りだけでなく、実るまでの過程もなかなかうまくできた。
草抑えの頻度も少なく、
適切なタイミングで、適切な関わりができ、
手間をかけすぎずに自然に沿って栽培ができたように思う。

今日は収穫祭で、その師と話した。

師は、僕たちの田植えのやり方をみて、
若干心配だったという。「これで大丈夫かなー?」と。

だけれど、特に僕たちに指導をすることもなく、
僕たちの田植えを見守っていた。

師は、結果的にうまくできたことに驚いていた。
逆に勉強になったという。

そんな師の人との関わり方が一番の僕らの学びなのだと思う。

僕たちの失敗する権利、失敗して落ち込む権利、を保証してくれていること。
自分の知識や技能を絶対視せず、人の田畑の様子も自分の学びに変えてしまうこと。

自然農の畑は、草も虫も敵としない。持ち込まない。耕さない。というのが基本的な原則である。

だからこそ、自然という大きな舞台の上で、自身の姿が試される。

「こうすればいい」といういつも決まった答えはない。何が正しいのか?ということが見えない中で、田畑と向き合う。

だからこそ、その人の学ぶ姿勢が試される。
自然農の田畑には、みんなの問いや、みんなの気づきがあふれている。

 

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インタビューして編集する

まなびおむすびのインタビューに行って、記事を編集している。

インタビューで聞いたことを、
また音声でも聞き返して、記事にしていく。
そうすると、インタビューした人のインタビュー内容が
より自分の中で深まっていく。

最初の話と、後半の話が全く違う話でも、
どこかでつながりがみえてくる。
目の前の人の根底に流れている何かがみえてくるような気がする。

書くことで、目の前の人を
いろんな角度から見つめることができる。
だからインタビューして、
自分で編集するって面白いなと思う。

目の前の人のみえなかった部分がみえて来る。
目の前の人が変わっていく。

それは、みえなかった自分から、
みえる自分になっていくという自分自身の変化でもあるのだ。