そのまんまたろうのブログ

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Sonomamma Taro no Blog

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12月のふり返り

今年も残りわずかとなりました。
21日が返送日でしたが、遅くなって25日となってしまった。

返送日にきっちりと返送できるときもあれば、
返送日よりも遅れて返送するときもある。

返送日があることで、今の自分のプリントに対する姿勢が確かめられる。毎日プリントに取り組んでいれば、返送日が近づいてくることの自覚もできるけれど、毎日プリントに取り組めなければ、その実感もまた少なくなる。

だから返送も遅れてしまう。

教材を送るだけのことなのだけれど、
そこにも自分を自覚できる仕組みがあることが
なんかうまくできているなーと思ったりする。

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学習の記録を積み上げていくことで、関係性が変わる

スクールで子どもの学習に関わるようになって、らくだメソッドの教材は使用できない中で、どうしたららくだの学習を生かせるのか?ということを考えていた。

まずこの2ヶ月で、学習した教材をストック&記録していくことを試みてみた。(子どもたちが取り組んだプリントを、1日の終わりにまとめる)

まとめ方は、1日の最後にやったプリントをまとめて、その一番最上部のプリントに ・日付 ・プリントの内容(因数分解とか) ・どのくらいできたか(◎・△・×) を書いておく。

いきなり子どもにやってもらうのはハードルが高いので、まずは僕がこっそりとはじめてみた。そして、翌週子どもと会ったときは、その記録をみながら今日はどこをやろうか?(先週・先々週はここやったね)ともちかけてみる。

らくだの記録表ほど記録の正確性はないけれど、この学習記録を共有することで、子どもたちとの関係性や、子どもの学習に向かう姿勢が変わったように僕は感じている。

今までは、その日その日の気分できっと教材を決めていたのだけれど、自分の学習の記録をもとに、今日の自分の学習の選択をしていく経験はこれまでになかった「選択方法」なのだと思う。

先週の記録をもとに、今日の学習の選択をすれば、自分の選択の自覚も深まる。今までは適当に、気分で決めていた選択が、少しだけ今の自分に最適だと感じる選択につながっていく。そこに選択の自覚が生まれてくる。
選択への自覚があれば、学習に対する姿勢も変わってくる。

そして、子どもにとって自分の学習の記録をストックしてくれること(次のステップは、自分でストックしていくことだと思うけど)共有してくれることは、指導者との関係性も変化させるようにも思う。

まずは指導者が、できる記録もできない記録も、やらなかった記録も、ただ大切にストックしておく。その行為って、ただストックしているだけのように見えるけど、子どもにとっては、今のできない自分、学習をやらないでいた自分、プリントをくしゃくしゃに丸めた自分をも受けいれて、大事にしているのだということが、伝わるような気もする。

本当にわずかなことなのだけれど、
そうやって少しだけ、学習の環境(仕組み)を変えるだけで、人の学ぶ姿勢って自然と生まれてくるのかもしれないと感じている。


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自分の学習状況はというと、ようやく因数分解をクリアした。
ようやく2次関数に入り、中学の学習はあともう一息だ。

因数分解は、なかなかクリアできず、「これ本当にクリアできるの?」とか、
「クリアできたみんなすごいなー。」という気持ちがあったけれど、
結果的には、クリアできた。

らくだのプリントをやっているとよくこういうことがあるのだけれど、
「これ本当にクリアできるのかよ?」という自分というのは、
とてもいい加減なものなのかもしれない。

何をもってそれを言っているのだろうか?笑

「これ本当にクリアできるのかよ」とか、
「自分にはできない」とか、

そう捉えてしまう自分っていうのは、大変いい加減であって、
「今の自分」の捉え方や、
時間の捉え方、
能力の捉え方、
いろんなことがいい加減に、自分の勝手な解釈で済ませている。

そして、それを自分自身にだったらまだいいのだけれど、
他者に対してもそういういい加減さを発揮してしまう。

でも、自分自身にしていることは、
他者にもしてしまうものだと思うから、
やっぱり自分のそういう、いい加減な勝手な解釈に少しずつ気づいていけたらいいなーと思う。

なんのために勉強しますか?

なんのために勉強しますか?

 

子どもたちが、勉強する意味がわからない。とか、

なんのために勉強するのかわからない。と言って、

なかなか勉強に気持ちが向かない状況は多くあるように思う。

 

その時に、なんて答えればいいのだろうか?という話になった。

 

その答えは色々あると思うけれど、

今の僕にとって自分自身が納得いく言葉をここに残しておこうと思う。

 

「意味」というのは、

いくらでも見出せるものなのだと思う。

 

それは勉強だけでなく、
すべてのことにおいていえる。

たとえば「食べる」ということでも。

 

生きていくために食べる。

美味しいから食べる。

食べたいから食べる。

楽しい時間を誰かと分かち合うために食べる。

野菜を作る生産者を応援したいから食べる。

健康でいたいから食べる。

 

食べるということでも、何百もの意味を見出せるのだと思う。

意味というものは、そういうものなのだと思う。

 

だから、勉強する意味だって、何百もの意味が存在するのだと思う。

 

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じゃぁ、勉強する意味がわからない。とか、

なんのために勉強するかわからない。と言う子どもにどのように対応すればいいのだろうか?

 

たとえばゲームが大好きな子どもがいるとする。

その子に「なんのためにゲームをやるの?」と聞いたとする。

それは、「楽しいから」とか、「夢中になってできるから」と答えるだろう。

もしかしたら、「意味なんてないよ」と答えるかもしれない。

 

そもそも、「ゲームをする」という行為をする前に、

子どもたちは、ゲームをすることの意味を考えたりはしないだろう。

 

「ゲームをすること」は、「なんのために」という意味とは切り離されているのだと思う。

 

きっと「勉強をすること」も、この「ゲームをすること」と同じなのだと思う。
意味は後から生まれてくることだってある。

 

だから、勉強する意味を子どもにどのように答えられるか?という視点よりも、

どうして、「勉強する意味」を子どもは考えてしまうのだろうか?

その「意味」を求める背景には、何が隠されているのだろうか?という視点で、

子どもと向き合うことが大切なのかもしれないと思った。

 

振り返ってみると、僕がスクールで子どもたちと関わっていて、

「なんで勉強するの?」という言葉に出会う時、

それは、その子が本当に苦手な教科をやっている時であったり、
なかなか集中できていないときなのだと思う。

きっと、その言葉の背景には、その子なりの行きづまりがあるのだと思う。

 

そういう視点で子どもの言葉を受けとってみると、

自分が子どもに対してどのように関わったほうがいいのか、関われるのか。ということがすこし見えてきたりする。

 

「なんのために勉強しますか?」という言葉の字のままに、その答えを探すのではなく、

その問いが、その子からどうして生まれてくるのだろうか?

という視点こそ、もしかしたら大切なのかもしれない。と思った。

自然農という学び場

田んぼの師は、
もう10年以上は自然農でお米を育てられている方なので、
僕らと比べたら経験値はまるでちがう。

今年の僕らの田んぼの実りはなかなかよく、
実りだけでなく、実るまでの過程もなかなかうまくできた。
草抑えの頻度も少なく、
適切なタイミングで、適切な関わりができ、
手間をかけすぎずに自然に沿って栽培ができたように思う。

今日は収穫祭で、その師と話した。

師は、僕たちの田植えのやり方をみて、
若干心配だったという。「これで大丈夫かなー?」と。

だけれど、特に僕たちに指導をすることもなく、
僕たちの田植えを見守っていた。

師は、結果的にうまくできたことに驚いていた。
逆に勉強になったという。

そんな師の人との関わり方が一番の僕らの学びなのだと思う。

僕たちの失敗する権利、失敗して落ち込む権利、を保証してくれていること。
自分の知識や技能を絶対視せず、人の田畑の様子も自分の学びに変えてしまうこと。

自然農の畑は、草も虫も敵としない。持ち込まない。耕さない。というのが基本的な原則である。

だからこそ、自然という大きな舞台の上で、自身の姿が試される。

「こうすればいい」といういつも決まった答えはない。何が正しいのか?ということが見えない中で、田畑と向き合う。

だからこそ、その人の学ぶ姿勢が試される。
自然農の田畑には、みんなの問いや、みんなの気づきがあふれている。

 

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インタビューして編集する

まなびおむすびのインタビューに行って、記事を編集している。

インタビューで聞いたことを、
また音声でも聞き返して、記事にしていく。
そうすると、インタビューした人のインタビュー内容が
より自分の中で深まっていく。

最初の話と、後半の話が全く違う話でも、
どこかでつながりがみえてくる。
目の前の人の根底に流れている何かがみえてくるような気がする。

書くことで、目の前の人を
いろんな角度から見つめることができる。
だからインタビューして、
自分で編集するって面白いなと思う。

目の前の人のみえなかった部分がみえて来る。
目の前の人が変わっていく。

それは、みえなかった自分から、
みえる自分になっていくという自分自身の変化でもあるのだ。


「デザインとは、問題に対する解決案構築の全行程である」 (『負のデザイン』 より引用 )

誰もが自分らしく、自分の人生を生きたいと願う。

それは、自分の目の前に「問題」や「行き詰まり」があるから生まれ願いだろう。
そして、自分の中に、こう生きたいという想いがあるからだろう。

だからこそ、その問題や行き詰まりと向き合わう必要がある。

つまり、自分の人生を デザイン する必要があるのだ。

(ここでいうデザインとは、負のデザインの中に出てくる言葉、「デザインとは、問題に対する解決案構築の全行程である」とする)

自分の人生を生きるために、 デザイン志向 は必須だろう。 

葛藤、悩むことの意味 (「普通がいい」という病 より)

葛藤、悩むことの意味

ここで、「葛藤」という概念についてお話ししておきたいと思います。 この言葉は、日常的にも使われますが、日本語では葛と藤がからまっていることから来ています。葛藤というのは、意識の中に○という気持ち、それと相容れない△という気持ちがあって、両者が対立したまま並存している状態です。もっと正確に言えば、○という 「頭由来の考え」と、△という「心由来の感情」が並存している(心や頭についての定義 は、第3講で触れます)。だから、スッキリしないで悶々としている。こういう状態を葛藤と言います。

よく、葛藤自体を病的なものだと考えてしまう人も多いのですが、葛藤していることはむしろ、健康な状態なのです。なぜなら、図1-2でご覧の通り、○も△も地上にあって、無意識という地下に生き埋めになっていない。つまり心理学的に言えば、抑圧されていない。本人としては、悩んでいてスッキリしないし、モヤモヤするんだけれども、これ自体は病的な状態なのではない。葛藤できる健康な力があると言ってもよいのです。

 しかし、とかく人間はどうにかしてスッキリしたいものだから、この一方を埋めて葛藤を解決したいと思う。するとたいていの場合、頭由来の考え○が、心由来の感情△を埋めることになるのです。△は 抑圧されて、これで意識上は○だけの天下になるわけです。見かけ上、本人はスッキリして葛藤はなくなります。しかしその代わり、△が抑圧されていますから、これが我慢して黙っているうちはよいけれども、そのうちに反発して動き出します。その結果、△のエネルギーが意識の方に反乱を起こしたり、それがダメなら身体の方から出てきたりします。それもうまくいかなければ、△の母体である心はストライキに入り、エネルギー自体を出してくれなくなる。すなわち意欲が出てこなくなる。・・・・よくクライアントの方は「治ったらすっきりして悩みもなくなって、きっと楽になるはずだ」と考えがちですが、実際はあるべき悩みを悩むようになる。それが、「治る」ということなのです。

聞かれたことに応えることについて

聞かれたことに応えることについて

 

相手に質問されたら、応える

でも、相手の質問をどこまで聞けているだろうか?

 

その一言の質問で、

相手が何をもとめて、何を聞きたいのか?ということについて

どのくらい掴みきれているだろうか?

 

 

相手は何を聞きたいのだろうか?

 

何をどこまで求めているのだろうか?

 

その確認せずして、

 

自分の伝えたいことだけ伝えていないだろうか?

 

 

相手が「聞きたいこと」は、

 

自分が「伝えたいこと」だけでは満たされない。

 

 

相手が何も求めていて、どこまで求めているのか確認することが、

相手に本当の意味で応える ために必要なことではないだろうか?

 

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質問する側だって、

自分が本当に何を知りたいのか?どうして質問しているのか?

そこが明確でない場合もある。

その時に、質問に質問する。質問の確認をするアプローチは、

相手が本当にもとめていることを明確にすることにつながる。

質問に「応える」=「反応する」前に、

その「応える」=「反応する」素材をより具体的に、

明確にしていくやりとりが、

相手にとってぴったりな「応え」「反応」につながるのだと思った。