そのまんまたろうのブログ

そのまんまこそ本物だ。自分のそのまんまを、受け入れ、認め、ゆるし、愛しています。

Sonomamma Taro no Blog

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7月ふり返り①

◎やれないのではなく、やらないと決めている

6月の最終週は県外での宿泊での仕事があった。毎月1回は県外で泊まりがけの仕事がある。そのたびにらくだのプリント学習ができない。
そして毎日できていたプリントが、できない日を挟むことで流れが止まってしまう感覚がある。

宿泊だとどうしてできないのだろうか。とふり返ろうとおもうのだけれど、
どうしてできないのか?と問う以前に、
もう自分の中で「やらないでいい」という認識があるのだと思った。
一応プリントはカバンに入れて、持っていくのだけれど、
これは「できたらやろう」という感覚で、
いや、「できないけど持って行こう」という感覚で持っていっているのだとおもう。

そんな感覚でプリントを持っていくのだからできるはずがない。

そして、そんな自分の状況を受け入れずに、
「どうしてできないのだろうか?」
と問いかけても何も気づきは生まれない。

大切なのは、「できないけどプリントをとりあえず持って行こう」という感覚で、プリントを持っていっている自分がいること。
そして、それなのに「プリントができない」ということに対して、
「なぜできないのだろうか?」とか思ってしまっている自分がいるということを自覚することなのだとおもう。

「プリントができない」という事実はもちろん大切である。
だけれど、その前に自分が1枚のプリントをどのように扱っているのか?という自分に目を向けなければいけなかったようにおもう。

僕にとってこの1枚のプリントは日常に沿ってくれる1つのツールのように感じる。何気ない日常の中に埋もれてしまう自分自身を映し出してくれる。

だけれど、県外の宿泊は普段の生活の「日常」とは少し違ったものである。日常とは正反対の非日常とも言える。そんな認識を持っているからこそ、すこし自分にとっての「1枚のプリント」に対する扱い方も変わってしまっていたように感じる。

だけれど「プリントをやる・やらない」ことと、
日常とか非日常とかいうものは全く関係のないことであって、自分自身がひも付けてしまっていることなのである。

自分がうまく紐付けて、できない理由をつくってしまっているだけなのだろう。

因果関係はないのにもかかわらず、因果関係を勝手につくってしまうのだろう。しかもなかなかそれっぽい因果関係を。

今回のこの振り返りで、「事実をみる」という観点で見てみると、
「泊まりがけだとプリントができない」ということが現実的に起こっている面での事実である。

そして、「できないけど持って行こう」とか「できたらやろう」という実感は目に見えない事実である。

この目に見えない事実をいつでも自分自身が取り出せれば、自分を修正することができる。

自分に素直になるということは、きっとそういうことなのだと思う。自分の目の前に実際に起こっている「事実」を正しく観る目と、目に見えない自分がどう感じているのか、何を思っているのかという目に見えない「事実」をどれだけ正しく確認できるか。

その2つの面での事実をみる目が大切だなとこのふり返りを書いて感じた。


◎6月の通信を出せなかった
毎月発行している「まなびおむすび」の発行が5月ごろから制作が遅れていて、どんどん発行が遅れて行き6月はかなり制作が遅れて出すことができなかった。

今回は6月号&7月号として発行し、どこかで6月号のかわりとなる発行をしたいとお思っている。

この通信が出せないという体験も1つのできない体験であり、自分としては情けない実感や落ち込む気分もあるのだけれど、一旦振り返っておこうと思う。

この通信の制作は必ず「ひとりにインタビューをして、インタビュー記事を掲載する」ということは決めていた。これがこの通信を発行をしていく中での僕にとって大きな意味を持つ決定事項なのだと感じる。

この「ひとりにインタビューをして、インタビュー記事を掲載する」という決め事がなければ毎月通信を制作して発行するハードルはかなり下がる。つまりできない体験がうまれないように思う。
制作が遅れてしまうのは、インタビューをさせてもらう相手をまず見つけることや、アポをとって実際にインタビューをして編集して記事にすることが僕にとってはハードルが高くなかなか時間がかかったり、うまくいかないことが多い。

だからこそ、日々誰にインタビューさせてもらおうかと意識をはったり(=この人はどんなこと思っているのか?どんな世界観で生きているのか?と意識する)、出会った人に、誰かを紹介してもらったり、、、、
通信の制作には、人とのつながりの作り方や、自分の意識を持ち方がすごく反映されていることがわかる。

もともと通信を発行しようと思ったきっかけは、名古屋でのつながりをこれからも継続できればという想いや、静岡に来てつながりがない中で、何かきっかけとなるツールになればと思って始めたことで、ただ記事を書くことができれば制作できるものだと思っていたけれど、自分の想像を超えて、さまざまな体験ができているように思う。

今回、この振り返りを書いて改めて思ったことが、この通信制作の一番外してはならない点は「ひとりにインタビューをして、インタビュー記事を掲載する」ということのように感じる。この決定事項はまずは自分が通信を発行「できる」「できない」に関わる1つの要因になってくれている。だからこそ、予定通りに通信が発行できなくても、この「ひとりにインタビューをして、インタビュー記事を掲載する」という自分との約束は大事にしていきたいと思う。


まなびおむすびのアーカイブをつくりましたので、もしよかったらみてください♩

taroshio.hatenablog.com

まなびおむすび アーカイブ


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-おむすびinterview : 千葉大学教授 木下勇さん
-今月のkey word : 「やる気」
-おむすび文庫 : 「〜しなさい」と言わない教育 著:平井雷太 解説:加藤哲夫
-今月の考現学

《2019年2月号》 ←こちらをクリック
-おむすびinterview : 新成人のみなさま(山本さん・望月さん・大勝さん)
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-おむすび文庫 : 「15歳の寺子屋 ひとり 著:吉本隆明
-今月の考現学

《2019年2月号(特別号)》 ←こちらをクリック
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-おむすびinterview : 空遊庵 中西益彦さん
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-おむすび文庫 : 「僕は上手にしゃべれない 著:椎野直弥
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-今月の特集 : 「屋久島」
-おむすび文庫 : 「星座」 屋久島の子どもたちの詩
-今月の考現学

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-おむすびinterview : 静岡県立大学学生 田邊佳穂さん
-今月のkey word : 「自己決定」
-おむすび文庫 : 「糸ばたかいぎ」連載コラム 〜原点「みんなのアトリエ」山梨で始めます。〜
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-今月のkey word : 「自己決定」
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-今月の考現学 : 自分らしい苦労

 

《2019年12月号》   ←こちらをクリック
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-おむすび文庫 : 『最初に読む料理の本』
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-おむすびinterview : 山本 愛子さん
-おむすび文庫 : SWITCHインタビュー 達人達(たち) 「坂本龍一×福岡伸一
-今月のコラム

6月のふり返り その①

◯6/3に中村教室に行きました
久しぶりに中村教室に行くことができました。教室では塾生のみなさんも数人みえられて、久しぶりに色々なお話をすることができました。

久しぶりに中村教室でゆっくり時間を過ごすことができてとてもいい時間でした。
教室にいくと、誰かがいてお話できる場が自分の日常の中にあるということは
とても大切なことなのだと改めて感じました。

やはり自分ひとりだと、自分の枠から抜けることは難しく、
他者の存在はとても大きな存在だと思います。

中村教室でも、誰が教室に来るか分からない中で、
誰かがきたら言葉を交わしたり、交わさなかったり、
他者の存在によって自分が動くということを改めて実感しました。

今の日常生活には、なかなか他者と何気なく対話がはじまる場はないですし、
(ないことの方が多いと思う)
なからこそ、自分がこの自分の生活圏でできることはあるように感じたし、
自分のためにもそういった場を開けるようになりたいという想いを改めて実感して中村教室を後にしました。


考現学を書き始めました
今回の中村教室で1つはじめたことがあります。
それは、日常で「書く」ということを始めました。下記のブログを立ち上げて、どんなことでも毎日「書く」ということをはじめています。

まなびおむすびの発行をはじめてから、あらためて僕「書く」ということを大切にしたいと感じています。
なかなか言葉にできなかったり、うまく話せなかったり、答えが出せない時に「書く」ということで自分自身が何より癒されたりしています。
だから、毎日書ければと思っていたものの、何か動き出せない自分がいたのですが、
今回中村教室に行き、井上さんのこれまでの考現学の実践や、
塾生の人が毎日積み重ねている実践の話を聞いたことで、
自分の中での「書く」ということの実践をしていこうと思っています。


◯時間を気にしなくなってきた
学習をはじめた時は、プリントのめやすの時間を結構意識していて、
プリントを解いている時に何度も時間を気にしていましたが、
今は時間を気にしなくなった自分がいるように思います。

それはなぜなのだろうか?と考えた時に、
「できるということ」の認識が自分の中で変化してきたような気がします。

この学習をはじめた時は、
時間内にできることが「できたこと」という認識だったので、

時間を意識して問題を解いていました。

でも、だんだんと時間を意識しなくても
時間内にできてしまっていることが「できること」なのだと思うようになってきました。
そして、時間内にできなくても「明日またチャレンジすればいい」というような感覚でプリントを取り組めるようになってきている気がします。

それは言い換えると、できない状態からできる状態になるまでを自分に委ねるようになったと言えるかもしれません。もちろん、できない状態の時は、「委ねる」という言葉にあるほど余裕な感じでもないのですが、その中でも「めやすの時間」との付き合い方を振り返ってみると、「頑張らずにできるようになってきた」ように感じています。






英語を話せるようになることってどういうことなんだろうか?

交換留学生が蒲原に来ています。毎年この時期に姉妹都市の町から
中学生〜大学生が数人蒲原に訪れます。
我が家は昔からホストファミリーの受け入れをしているので、
この時期には必ず英語を使う体験が訪れます。

今日はウェルカムパーティーで、
日本の中学生たちが学んだ英語を話している姿をみて、
英語を話せるということはどういうことなのだろうか?という
問いが僕のなかに浮かんだ。

そのテーマに関して書き始めたなかで、
僕にとっての「英語を話せること」は“他者に向けられた言葉でしかない”と感じた。(英語を話せることと読めることはまた違う)

英語を話せるということは、“何かを伝えるため”の手段のようなものだ。
一方で、日本語を話せるということはどういうことなのか?と考えた時に、
日本語の場合、「自分自身に向けられた言葉」として用いられることがある。
つまり、自己対話において日本語を使う。英語で自己対話をすることはないから、僕にとって英語を話すということは、他者のみに向けられた言葉なのだ。

これからますます英語を話せることが大きな力を持つかもしれない。
だからますます英語を話せるようになることが目的になりかねない。

だけれど、「伝える」ということの前に、
まずは自分が「伝えたい」という言葉を深めていくことの方が大きな価値があるように思う。(もしかしたら「伝える」ということは、誰かがやってくれるかもしれないし)

その「伝えたい」という想いは、自己対話のなかで深まっていくものなのだと思う。
そして自己対話は、もちろん英語ではなく日本語でするだろう。
そう思うと、自分の「伝えたい」を深めるための学びをしていくことはものすごく大きな意味を持つことなのだと感じた。
そのひとつとして、考現学は1つの学び方なのだと思う。

伝えるための能力は、
「伝えたい」という想いがなければその能力は生かされない。

そして、本当に「伝えたい」という想いを深めることができれば、
「伝えるため」の英語を自然と学んでいくのではないか。とも思った。

「伝えること」は自分以外の人でもできるかもしれない。
けれど、自分の「伝えたい」という想いは自分しか生み出すことができないんだ。


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パーティーに参加していると、
英語が話せなくても、めちゃくちゃ楽しそうに関係性を築いている方たちを多くみます。
そういう人たちをみると、
人と人の関係性、つながり合いっていうのは

言葉を分かり合うことではないというような気もします。

昨日の考現学で書いたように、
伝わらない状況のなかでお互いが歩み寄ること、
お互いが分かろうと相手に耳を傾けること、相手の目を見ること、
そういうことが一番大切なんじゃないかということを
学ばせてもらった気がしています。


*昨日の考現学

こちらのページは今月オープンしました。これから毎日一言でも書くことをしていきます。今はスタートアップ時期なので、徐々にオープンにして毎日書くということのなかで学びを深めていけたと思っています。

5月のふり返り その2 

5/1-5/11の前回は、5日プリントができない日があった。
今回、5/12-5/25の期間は1日だけできない日があった。
プリントに取り組む時間帯も朝の時間帯にできるようなってきた。

◯前回のふりかえりを読んでみた
前回のふりかえりを読んでみると、前回までは記録表に結果を記入することも正確にできない状態だったようだ。その状態からすると、すこしプリントに落ち着いて向き合える状態になってきたように感じる。

◯中学3年のプリントに入った
幼児のプリントからはじめて、ようやく中学3年のプリントに突入した。毎日プリントにできない日もあるし、なかなかプリントに合格できない時もあるけれど、なんだかんだここまで進んできた。
そういう事実はきっと大きな経験になるように思う。

大体の学習は、いつまでにどこまでクリアさせるとか、どこかに目標やゴールを決めて進んで行くスタイルが多い。僕の小・中・高までの学習の経験を振り返っても、「いつまでにどこまでできるようになっているか」が決められていた。
そこに向かって学習を進めていった。

けれどこのらくだメソッドのプリントは、そういった進み具合の見通しがたてにくいように感じる。今、中学3年生のプリントに突入したけれど、学習をスタートさせた時は、こんなにも時間がかかるとは思っていなかった。
その時と同じように、自分が高校3年生のプリントをいつ頃までにできるようになるか?という検討はたてにくい。

それはどうしてか?と思うと、それは「できる」ということが基準にある学習だからだと思う。サッカーでも、この技術を習得するまでに、どのくらいかかるのか?ということの目安は立てづらい。いつまでたってもできない時もあるし、一瞬にしてできるようになってしまう時もある。
「できるようになる」ということは、きっとそういうことなんだと思う。

これまでは「わかる」という基準での学習が多かった。
だから学習の進捗具合もみんなで足並みそろえて進んでこられた。
でも、この学習は「できる」という基準の学習だということを改めて実感した。


◯観察量
らくだプリント1枚から、どれだけ気づきを生み出すことができるか?ぼくはこれまでらくだのプリントから多くの気づきをもらったように思う。
だけれど、ここ最近はあまり記事が書けていないという状態である。

それはなぜなのだろうか?

それは自分の観察量なのだと思う。観察量は意識をどのくらい向けているのか?ということとも言い換えることができるように思う。

このところ仕事のことでも、プライベートのことでも考えなければいけないことがあったりで、なかなか自分のなかに余裕がない。だからプリントに意識向けること。プリントを通して自分を観察する量が少ないのだと思う。

考えなくてもいい時に、考えてしまう。
意識をしないでいい時に、意識をむけてしまっている。

らくだメソッドのプリントが、どれだけ自分の状況を映し出してくれていても、
その映し出された現状を、自分が見つめなければ、見つめる余裕がなければ、
その事実は事実のまま過ぎ去ってしまうのだと感じた。

5月ふりかえり 記録表への記入ミス・もうすぐ中3

記録表への記入ミス

記録表を振り返ってみると、
記入ミスがかなり多いことがわかる。

プリントの開始時間を書き忘れていたり、
日付の記入場所がずれていたり、
記録表への記入すらできていない自分がいる。

こんな普通のこともできていないということがわかる。

そもそもここでいう「普通」とは何か?ということであるが、
ここでいう「普通」というのは、
何も考えずに、ただ記録表に正しい記録を正しく書き込むということ。

なぜ、こんなにも普通なことができないのだろうか?
それは、プリントに対する自分の姿勢が普通ではないからなのだと思う。

プリントをやらなくては。と思ったり、
プリントいつやろうか。と思ったり、
ここ最近は、プリントに取り組むことが
普通のことではなくなっている。

だからこそ、プリントの結果を記録表にただ書き込むという
いたって「普通」な行いも、普通のことではなくっているのだ。

何気ない、些細なことだからこそ、
今の自分がしっかりとそこに映し出されていくのだとおもう。

だから、そういった小さな現状をも大切にして、
なるべく今の自分の状態を観察して、自分で自分を整えていける自分でありたいとおもった。

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もうすぐ中3

なんだかんだでもうすぐ中学3年生のプリントに入る。
この自分の学習進度のはやさは、他者と比べて早いのか遅いのかはよく分からないし、他者に比べてどうこうということへの興味は湧かない。

そんな学習環境のなかで、自分の「学習進度」について考えてみると、
やはり自分が学習を積み上げられてきたか?
(自分が毎日プリントをできたのか?)ということを振り返らざるおえない。

そして、もっとできなかった日をできた日にできれば、
この学習進度もはやく進んだのだろうということを思う。

自分の計算力とか、もともと持っている素質みたいなことではなくて、
自分が毎日毎日コツコツと1日1枚を続けてこられたか?
ということを振り返ることになる。

「続けることで必ずできるようになる」という前提のもとに学習している自分がいることに気づく。

だからこそ、どうやったら毎日プリントに取り組めるだろうか?
どうやったらできない自分を責めずに、できない状況でもプリントに取り組める姿勢でいられるだろうか?

そうやって、計算を習得するプロセスのなかで自分と向き合わざるおえない。

続ければ絶対できるから、
自分の素質みたいなものを「できない理由」にはできない。
この記事を書くなかで、寺子屋塾でよくシェアしてもらう吉本さんのこの言葉を思い出した。

才能があるとかないとか、そんなものは認めない。
そんなのは嘘だ。
本当なのは、そのために手の動きをどれだけやったかということです。

才能なんてものは問題にならない。問題になるのはせいぜい最初の2、3年くらいのもので、10年経ったらそんなことは全然問題じゃなくなる。

 

「世間」とは何か

地元に戻ってきて思うこと。

名古屋で生活している時、
岐阜で生活しているときには
なかった関係が自分に紐付いてくる。

近隣、近所、親戚、家族、、、、

あらゆる関係性が、自分の周りに紐付いていて、
その関係性のなかに形をもたない世間がうまれる。

その世間をどうやって自分がとらえていくのか、
その世間は自分の生き方に
何かしらの影響はうまれてくる。

世間とどう付き合うか、
世間をどう捉えるか、
世間とどう折り合いをつけるか。