そのまんまたろうのブログ

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2018年のふりかえり

2018年の振り返り

2018年は、かなり大きな変化があった一年でした。
もう、2019年になってしまいましたが、2018年の出来事をまとめておこうと思います。

・6月 唯ちゃんのおじいちゃんが亡くなる
自分のおじいちゃんは、もう両方ともなくなってしまっているので、
唯ちゃんのおじいちゃんは自分のおじいちゃんみたいな感じだった。
病気になる前も、一緒に唯ちゃんの両親のお店でケーキを食べたり、一緒に過ごした時間がとても長かった。
おじいちゃんは、予科練特攻隊として戦争の経験もある。よく戦争の話をしてくれた。
戦後は、全国をよく旅行したという。それは、戦争で亡くなった自分の仲間や上司を弔いたいという気持ちや、
戦争を受け入れて、自分の中で折り合いをつけたいという想いからだったという話がとても残っている。

そして、92歳という年齢でなくなったけれど、
病室で、自分は何を残せたのか?ってずっと考えてたけど、
何か残せたとか関係なくて、ここまで生きられたこと、ただそれだけでよかったという言葉も心に残っている。
最後に、自分の人生を肯定して、ここまでやったという想いで死を迎える、そういう逝き方を初めてみせてもらった。


・4月末 畑に出会う
蒲原の山で畑ができたら良いなと思っていたら、姉の幼馴染の紹介で、畑を紹介してもらった。
地主さんもとっても優しくて、快く借りれることになった。そういうこともあり、蒲原に帰える流れが生まれてきた。

・5月 蒲原の古民家、そのオーナーの先生と出会う
ちょうど、実家から歩いて2分のところにある古民家を購入された大学の先生とご縁をいただいた。そして、9月から住ませてもらうことも決定した。
全てが、すごい良い具合に流れに乗っていて、決まる時は自然と決まっていくんだな、なんてことを感じずにはいられなかった。
本当にありがたく、いただいた人や土地、建物のご縁を大事にしていきたいと思わずにはいられない。

・5月〜8月 畑の畝だて
畑をお借りすることができて、耕作放棄地(もともとみかん畑)を草刈り→畝だてしていった。
今年の夏は猛暑で、ゆいちゃんは熱中症になったり、過酷な日々だった。
結局引っ越し前は、畑全体の1/5 程度しか畝は立てられなかった。

・引っ越し
アラスカ前に引っ越しをした。自力でやったのだけれど、今年の夏は暑すぎてバテバテだった。
アラスカの準備もなかなかできず、8月末はヘトヘトだった。

・9月 アラスカに行く
アラスカに行った。このアラスカの旅は、オーロラアドベンチャーツアーというものだったので、
ホテル泊は1日のみで、あとはモーターホームというどでかい車だった。
そのモーターホームのドライバーとしての参加だった。
自分では絶対やらないようなことにチャレンジできた良い経験だった。

ラストフロンティアとも言われる手付かずの大自然は、とっても気持ちよかった。

・10月 畝だて、イノシシ対策の柵立て
アラスカから帰ってきて、畝立ての日々が始まった。
最初はかなり疲れていた作業も、何度もやっていくうちにやり方や、コツを覚えていって、
1日の作業量がかなり増えた。数をこなすって大事だなと改めて思った経験の1つだ。
イノシシにもかなり荒らされて、本当に蒲原の山にイノシシがいるということに驚いた。
(やられてみて初めて気づく)


・11月 入籍
ゆいちゃんと11月15日に入籍した。その前に両家の顔合わせなど、
塩坂家と高橋家が初めて直接お会いできた。
お互いの両親が、どちらも僕らのことを見守ってくれていることに本当に感謝です。
結婚はゴールではなく、スタートです!!

・12月 ようやく落ちつく
ようやく引っ越しから3ヶ月が経ち落ち着いてきた。
初めてらくだメソッドのプリントを1ヶ月毎日できた。プリントに向かう自分の姿勢も少し変化があるように感じた。

今後は、インタビュー通信の発行をやっていこうと思っていて、
自分の中で新しい動きが生まれてきて、新年明けて1月からまた楽しみになってきた。


2018年は、たくさんの変化のある1年だった。
引っ越すことも、入籍することも、
自分たちで決めてきたのだけれど、今こうやって振り返ってみると、
そういう1つ1つの決断をよくしてきたなと思う。

きっと、今年もそうやって1つ1つ決断してすすんでいく1年になるかもしれない。
でも、何か正解の道があるわけでもなくて、
決めて、その道を地道にすすんで行く。それを自分が納得できるように日々やっていくだけなのだと思う。
そういう心持ちですすんでいけたらと思う。

2019年も楽しみたい。

暦の上では年末です。

今年もようやく終わる。
スーパーに行けば、たくさんの人がいる。
いつもよりたくさん食べ物を買って、
いつもより、ちょっぴり贅沢して。

普段はみんな違った気分で、
みんなそれぞれの日を過ごしているのだけれど、
年末は、みんなが同じような心持ちでいる。

ただ、時間が流れているだけだけれど。
暦の上で生きてる私たち。

現状把握のためのインタビュー

先日、未来デザインワークショップを終えて感じたことから。

未来デザインの第二局面は「現状把握局面」である。
現状把握とは、客観的な事実素材を集め、
現状=明確な事実を把握する局面だ。

これから僕は、地元で自分の未来をデザインしていく。

そうなると、自分の「現状把握」というのは、自分ただひとりの内面や、
自分の活動の現状を把握するだけでは、自分の現状把握といえないことがわかる。
(その地域で、その地域の市民と繋がりながら自分の未来はデザインされていくのだから)

自分の現状把握というのは、自分という一個人をこえて、
自分の地域や市民・身の回りにいる人たちの現状を把握するということなのだろう。

そうやって考えると、僕はまず、自分という一個人をこえて、
地域にいる人の声を聞くことが大事なのだろう。

そしてそれは、インタビューすることによって、
さらに深まっていくのだろう。

どれだけ顔を合わせていても、インタビューしなければ見えない部分は必ずある。そして、その見えない部分こそ、その人のニーズや、大切にしていることが隠されているように思う。

見えない部分を見えるようにすることをインタビューを通して行っていく。
その見えない部分が見えることで、
新たなつながりや、自分の役割や居場所がみえてくるかもしれない。

そんな想いをもってインタビューをしていきたいと思う。

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第一回目のインタビューは、昨年、僕が生まれた街である蒲原にある古民家を購入された、千葉大学教授の木下勇先生にインタビューさせていただいた。

子どもの参画や、子どもの「遊び」をテーマ、
研究されている先生は、学生時代からこれまで多くの方々にインタビューをしてきたという。

そんなことから、インタビューの面白さや、聞くことの大切さについてのお話もしていただき、とっても有意義な時間だった。





 

現状把握 観念ではなく事実を

12/22 未来デザインWSのふり返り
〜オンラインにて名古屋⇄静岡 をつないでもらい参加しました〜

 
◯現状把握 観念ではなく事実を
 
この話題は、いつも未来デザインのワークショップの時にでる話題です。
「現状が正しく把握されれば、おのずと未来が見通せるようになる」
 
たしかに、現実を正しく把握すれば、今何をやればいいのか、どんな手を打てばいいのかがわかる。
 
現状(客観的事実)が正しくつかめていないから、
不安になったり、もやもやするのだろう。
こうやって考えると、ものすごく簡単で当たり前のことを言っているように思うけれど、これがなかなか難しい。
 
何が事実で、何が観念(自分がつくりだしているもの)なのか?これがごちゃまぜになってしまっている。そして、事実を正しく見つめずに、自分の見たものが事実=現状だと思っていることがほとんどだということを痛感した。
 
でも、じゃぁどうしたら客観的事実を把握する見方ができるようになるのか?
それは一人ではなく他者との関係のなかで、
伝える→伝わらない の経験を繰り返すなかで、
自分の観察の仕方が変わってくる。という内容が印象的だった。
 
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◯僕の今後の活動も第二局面「現状把握」的動きが必要になってくる。
 
地元に帰ってきた。地元に帰ってきて感じたことは、
やはり地元は、名古屋や岐阜とは流れている空気や、人の様子が違う。ということ。
でも、違うと言っても、何がどのように違うのか?と問われても、なかなか事実ベースで応えることはまだできない。
 
今日の未来デザインのワークショップで僕は、
現状把握が全くできていないということに気づいた。
 
自分の内側にある想いだけで進んでいくことはできない。
他者との関わり、地域との関わり、自分の置かれているまわりの環境が存在して初めて自分が存在することができる。
 
だけど、自分の内側や、自分の手の届く範囲でしか、
そのまわりの環境に対して把握することをしていない。
 
ちょうど引越しをして3ヶ月が経った。
ようやく自分の身の回りのことが落ち着いてきた。
何から始めればいいのか?と思っていたけれど、まずは現状を把握するために動いていくしかない。人から話を聞いたり、自分で見て聞いて、感じて。
足を動かして、手を動かしていくしかないと感じた。
 
そうやって、事実がだんだんと把握できるようになれば、
自ずと自分のやれることややらなければいけないことが、理念を元に生まれてくるのだろう。(理念設定ももう一回やりなおすけれど)

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そして、自分のやれることは、
自分の能力を上げることはもちろんなのだろうけれど、
自分の現状把握の範囲が広がっていけば、
自然とやれることが広がっていくということもあるのだと思った。

自分の今は、自分の現状範囲の中にあるのだから、
自分の現状範囲のその範囲が広がっていけば、
自分に広がりが生まれてくるだろう。
 
だから、自分の広がりを生むために、
自分のスキルを上げたり、
自分が何かをできる人になったりする前に、
自分が今、この現状をきちんと把握することが先のような気がした。

そうしたら、今の自分でも自然と何かできることがあって、
自分が自然と広がっていくことがあるのだろう。
そして、その時に始めて、自分にスキルが必要だ。とか、
これを学びたい、あれをできるようになりたい。そうやって進んでいくのだろうと思った。
 
これは、らくだの計算プリントと同じことだ。
自分が今、「できないという実感=現状把握」があれば、
どこを学び直す必要があるのかすぐ理解できることときっと同じなのだろう。。
 
足し算ができないのに、自分が何ができないのか?という現状が把握できず、
でもできるようになりたいから、掛け算や割り算を勉強しようとする。
 
これは本末転倒であって、これでは一向にできるようにならない。
 
でもこれと同じ問題が、
自分の人生で起こっていることはたくさんあると思った。
 
 

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自宅にてオンライン名古屋⇄静岡をつなげてもらい、参加させてもらいました。
シートやフリップのシェアはメッセンジャーチャットでつなげました。

こうやって、オンラインでも自分の学び場をもてるということは、
ネットがここまで普及してた今だからこそできることだと思います。

小学校や中学校で、メディアリテラシーとか、インターネットの使い方(主に危険性)をたくさん教えられたけれど、こうやって有効にインターネットの機能を使って、つながりのなかで学べる機会に参加できるということは、ネットの使い方としてはとても価値あることのように感じます。

できない、わからない・・・つまり、うまくいかないとき、サンカーラが動く 〜Facebookでのコメントのやりとりより〜


taroshio.hatenablog.com
この投稿に対して、中村教室井上さんと、塾生の西尾さんがコメントをくれた。
Facebookでは、投稿が流れてしまい、振り返ることが難しいので、そのやりとりを残しておこうと思う。
以下、Facebookコメント欄でのやりとり。

井上 淳之典 太郎ちゃんイイ感じですね。頑張って目標を立てて朝プリントをやろうとするのでなく、朝プリントがスッとやれる心持ちの自分になることが大事なんですね。もちろん、こうやって言葉で説明しても、自分で体験しない限り絶対にできないことなんですが。

「あるがままを観る」「できない体験が大事」という言葉は、いままで何度も繰り返し言ってきたんですが、ようやくそれがどういうことなのか、なぜそうなのか、わたし自身も心底腑に落ち、釈迦のサトリとも繋げて語れるようになってきました。


塩坂 太郎 ありがとうございます。こういう体験をもっと大切にしていけたらと思います。1枚のプリントを通して起きたちょっとした出来事ではあるんですが、これってプリントに限らず多くのことにあてはまりますよね。
なので、やっぱり1日1枚のプリントを通しての体験を振り返りながら大事にしていきたいなと思います(^ ^)

井上 淳之典今日・・もう日付が変わって昨日になっちゃいましたが、釈迦のサトリについての記事を3つ投稿し、関連する小出遥子さんの記事をシェアしました。
過去も未来もいまここから | 小出遥子オフィシャルサイト


らくだメソッドでの学習は、五蘊観の4番目、サンカーラを省察し鍛錬することにつながっているんじゃないかと。廣安くんに教室でこの話をした日に彼が書いていたこの記事も参考になるかもしれません。
http://hiro22yasu13.hatenablog.com/entry/2018/11/14/222914


西尾 亮 できています。
というより、
できてみちゃってます。
って感じなんでしょうかね。
またシェアしたい!


塩坂 太郎 そうですね!こういう体験の「できる」っていうのは、あんまり自分の力っていうか、自意識みたいのがないんですよね。たぶん「できる」という自意識が高くて、「できない」自意識が低いことってよくあることだと思うんですが、その逆って感じですかね!

井上 淳之典 西尾 亮 (Ryo Nishio)「できみちゃってます」って面白い表現ですね。

井上 淳之典 塩坂 太郎 (Taro Shiosaka)「できる」という自意識が高く「できない」自意識が低いの逆って表現もいいですね。ふつうにこの状態を表すのに適当な表現っていうのがないんじゃないかと。

井上 淳之典 釈迦はこのことに気づいて、五蘊観の4番目〝行(サンカーラ)〟という言葉で表したんです。でも、これは目には見えないし、自覚出来ないため(いわゆる心理学の言葉でいう「無意識」であり、二村ヒトシさんの「心の穴」なので)、弟子のほとんどが理解できず、これを「八正道」という言い方に置き換えてしまった。
冨永半次郎さんは「ヴェーダナ不中の由縁のとき、サンカーラあり」と言われているんですが、できない、わからない・・・つまり、うまくいかないとき、サンカーラが動くので、そのときこそ自分のサンカーラがどういうしくみになっているかを知るチャンスなわけです。

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井上 淳之典 吉本さんの『心的現象論』には仏教の話が殆ど出てきません。でも、日本が戦争に負け、当時21歳の皇国成年だった吉本さんの天地がひっくりかえってしまったとき、蔵書をすべて売り払って『国訳大蔵経』を全巻買い込み、2年ほどそればかり読みふけっていたとどこかに書かれていましたし、親鸞聖人にあれだけの大きなシンパシーを感じられるところとか、たぶん吉本さんの思想の底辺には、仏教思想というか原始仏教のエッセンスが流れているんじゃないかとおもうのです。

また、五蘊観と心的現象論の関連性に言及している情報は、ネットで検索してもひとつもヒットしません。でも、色受想のプロセスは人間以外も含めたすべての生き物に言えることで、行識のプロセスは人間のみですから、原生的疎外と純粋疎外という見方は、五蘊観とほぼ同じというか重なる考え方とみていいんじゃないかと。

ここに、動物(外部知覚)と植物(内部知覚)のハイブリッドとみる三木成夫さんの人間観を加えていくことで、心を三次元空間内に立体としてとらえることができる・・・これをカタカムナの世界で〝球感覚〟といっています。

ようするに、『心的現象論』は釈迦のサトリに匹敵するぐらいの内容だということで、発表された当時、あまりに難解なために多くの人が理解できなかったというのも頷けるのではないかと。

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塩坂 太郎 >できない、わからない・・・つまり、うまくいかないとき、サンカーラが動くので、そのときこそ自分のサンカーラがどういうしくみになっているかを知るチャンスなわけです。

なるほどです。プリント学習がなんで計算の領域におさまらずにセルフカウンセリング的な意味が生まれてくるのかというのが、この五蘊観の表と↑のコメントですごくつながりのようなものを感じました。
まだ、よくわかっていませんが、このコメントを読み返しながら体験し続けようとおもいます。

ちょうど、ふり返るということについて、思っていたんですが、この五蘊感の表をちょうどシェアしてもらって、振り返りって行為はものすごく人間的というか、人間とか(自己)の特性を理解するためには、必須の行為だなと感じました。
できないとき=サンカーラが動くときこそ、振り返りだなと!

塩坂 太郎 車でもなんでも、何も異常がなければただ進んでいくわけですが、そうやって異常がなく進んでいる状態は、何も車の仕組みを知ることはできません。
でも、車に異常が発生してうまく進まないとかしたとき(=できないとき)に車の内部とか、構造に目を向けるし、どこを修正しようとか、メンテナンスしようとかなります。それは、車への理解とか新たな気づきの機会になる。なんかそんな例えが浮かんできました。(車自身が車を理解することはないんで、例えは微妙ですが。笑)

でも、車はそうなんだけど、いざ自分が日常生活の中で、できない体験に直面したとき、なぜか人は目を背けたり、できない現実をごまかしたりしてしまうんですね。それって本当にもったいないことなんだと、改めて感じました。

井上 淳之典 健康な人は健康を意識しないですよね。でも、病気になると健康の有り難さを実感できるわけです。それもうまく行かないときにサンカーラに意識が行くからなんですが、そのサンカーラが執着する方向に機能してしまうと、「健康」という観念を生み出してそこに執着し、実体のない健康を目指すということになってしまうんですね。

そのことを釈迦は四苦八苦の8番目、五蘊盛苦(五蘊が盛んにはたらきすぎてありもしないものを生み出してしまう苦しみ)といいました。だから、サンカーラ自体が正しい方向軸をもって機能するようにすることが大事なんですが、そのためには鍛錬が必要で、らくだメソッドはそれをやっているって気づいたわけなんです。


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井上 淳之典 ポイントは、執着は原因ではなく結果だというところ。つまり、「執着を去ることによって悟りが訪れる」というのは大脳思考による勘違いなんです。正覚(悟り)も執着もいずれも結果なので、正覚が訪れるような、正覚を自ずと生み出してしまうようなサンカーラになること、サンカーラ自体を組み替える(正常化)ことが必要なんですが、放って置いてもそうはならないので日々の鍛錬を積み重ねて行くしかないんです。

未来デザインの土台となるISTを開発された大和信春さんは、内拠(ないきょ)という言葉をつくられてこのことを説明されているんですが、内拠という言葉をわざわざ新しくつくらなければいけなかったのは、それにあたる既存の言葉がなかったからで、この内拠がすなわち釈迦の五蘊観でいうところのサンカーラのことだとおもってもらっていいです。


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井上 淳之典 内拠については、大和信春さんの『心の自立』という本に詳しく書かれています。この本は一般の書店には置いてないので、寺子屋塾にて販売中。

 

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言葉について

先日のインタビューゲーム会の振り返りより。
インタビューをしたときに相手が言った、
「時間を引きのばす」という言葉がとても心に残った。

なかなか自分では、時間を引きのばすとい言葉を選ばないと思ったし、
その言葉がとても印象深かったと感じていた。

振りかえりセッションのとき、インタビューした相手と話す中で、その「時間を引きのばす」という選択が生まれた背景を聞くことができた。そこいろんな悩みや葛藤があったのだと感じた。

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人の言葉のチョイスやセンスは、その人の繊細さを表しているのだと思う。

その人なりの表現の裏側には、きっとその人なりの苦労や葛藤があるのだと思う。

べてるの人たちの言葉選びはセンス抜群だ。

それはきっと、べてるの人たちひとりひとりが、
自分と真剣に向き合ってきた証なのだと思う。

その積み重ねが、きっと自分をぴったり表現できる
言葉との出会いになるのかもしれない。

言葉は、意味をこえて、その人の積み重ねてきた経験や実感をも表現しているのだと思う。

そう思うと、ひとりひとりが自分の言葉で表現すること。
その言葉を聞いていくことって、ものすごく素敵なことのように感じた。

インタビューゲーム会 4hセッション vol.1

第1回インタビューゲーム会 4hセッションを、
静岡県静岡市清水区蒲原にて開催しました。

今回参加メンバーは方は、教員志望の大学生と、教育の研究員をされている社会人の方が参加されました。
インタビューゲームで学べることは、その人、その時々によって異なってくると思いますが、「聞く・話す・書く」という要素が入ったインタビューゲームは、自身のコミュニケーション力(観)の現状把握や、「対話」や「コミュニケーション」について考えるための有効なプログラムのように感じています。

次回は2月に開催予定です。興味がある方はぜひメッセージ頂けたらと思います。

以下、参加者の感想と僕の他己紹介シート、振り返りセッションの付箋のシェアです(^ ^)

 

初めて「インタビューゲーム」に取り組んだが、自分を見つめ直すことができたり、今までの自分にはなかった発見があったりする面白いゲームだった。インタビューをされる時には自分の中にどういう考えがあるのかを見つめることができ、インタビューをする時には自分が興味を持っていることはどんなことなのか。相手の何を知りたいと思っているのかも見つめることができた。また、他己紹介文を書いてもらうことで、相手から見えた自分の姿や、相手への伝わり方、表現の仕方など、新しい発見も多くあった。今回一緒にインタビューゲームを行った人たちは皆、教育に関心のある人たちだったので、共通して話せる話題があり面白かった。しかし、教育に関係する人たちだけでなくても、このゲームは楽しくできると感じた。その方がまた今までになかった視点から質問されたり、紹介文を書いてくれたりする面白さがあると感じた。

 

引っ越しから3ヶ月になり、ようやく静岡での生活が落ち着いてきた中で、インタビューゲーム会をやることができたことが何よりも良かった。なんでも体験、やることが大切だと改めて感じた。今日一番の驚きは、〜君の他己紹介シートだ。以前1回だけあった時に話した〜君の他己紹介シートは自分が想像したものとはかけ離れたものだった。それは当たり前のことなんだけれど、1回会っただけでも、自分の中に〜君という像をつくっていたのだろう。自分は人の1面しか見ることができないということを強く心得たいと思った。
もう一つは、人の言葉のチョイスやセンスは、その人の繊細さを表しているのだと思う。その人なりの表現の裏側には、きっとその人なりの苦労や葛藤があるのだと思う。そういったことを考えると、表現を分かち合うことで、その人に近づくこと、知ることにつながっていくように思えた。

 

今の自分を表現できるいい機会、自分は相手(他人)ありきだから、自分はないとも言えるし、あるとも言える。「我」はまだ残っていて、インタビュー中に無我になろうとする自分と、我の自分が現れる。それを認識できるから、現状把握のプログラムには非常に面白い。今は自分が問いを持っているが、場が問いを持つ、空気が問いを持つ、関係性が問いを持つ、なんてことがあるんだろうか、、(笑)

 

今回のインタビューゲームで自分の考えていやことが具体的に見えてきたと思いました。質問されて自己紹介文にまとめてもらった時に自分はこんなことを考えていたのかと気づきを与えてもらいました。自分が考えていることだけでは自分の考えは伝わらず、別の人に聞いてもらうことでまとまっていって、他者に伝わりやすくなると思いました。
また、深い話を誰かとする場面は、そんなに無いと思うので、自分の興味関心があることについて他の人の考えを聞けるいい機会でした。自分にとっても他の人の意見が参考になって、自分の考えを見直す機会になりました。

 

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 振り返りのセッションの際の付箋

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