そのまんまたろうのブログ

そのまんまこそ本物だ。自分のそのまんまを、受け入れ、認め、ゆるし、愛しています。

Sonomamma Taro no Blog

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研究的生き方

現実を受け入れない研究などない。
そんな都合のいい研究は、研究ではない。
研究は、どんな現実でも、
受け入れなければできないものだろう。

 

そして、現実を受け入れて、
正しく事実を見つめて、観察する、
その繰り返しの中で、
新たな気づきや学びが生まれてくる。

 

だから、自分自身を研究しようと思えば
どんな自分をも、まずは受け入れなければいけないのだ。

 

研究的生き方こそ、
今を受け入れる生き方のなのだろう。
自分を受け入れて、よく観察して、自分という存在の研究材料にする。

 

そうやって、自分に矢印を向けて、
どんな自分もまず受け入れてみる。

 

この世界はたくさんの研究にあふれている。
たくさんのことをこれまでも、
そしてこれからも、人間は研究を続けていくだろう。

 

だけど、人間は一人ひとり違うのに、
自分自身の研究を忘れていたのかもしれない。

 

「研究」というスタイルは面白い。
研究は、どんな今だって、
受け入れることからスタートすることできる。
良いとか、悪いとか、損とか、得とか、
そういうものを超えて、
今この事実をまず見つめることから始めることができる。

 

そうやって、研究的生き方の中で
僕たちが繋がっていくことができれば、
ただある現実に、なんとなく僕たちが持っている
良し悪しの基準なんて、
そんなに大したことではなくなって、
それぞれの基準の中で、
自分の価値を、現実に見出せるようなるのかもしれないと思った。

名古屋大会プレ企画 ちゃっかり!当事者研究 冒頭の向谷地さんのお話

ちょっとお互いが立ち位置を変えいくっていくのを
私たちの生きる知恵として生み出したものが
当事者研究だなと思っています。

 
当事者研究が大切にしているのは、
自分の正しさを相手にどう伝えるかとか、
自分の意見をいかに説得するかとか、
話し合いをしてどう決着をつけるか、
そういうこととは全く違う発想で、
お互いが情けない人間だとか、弱い存在であることを忘れてしまうと、
単なる議論とか、ぶつかり合いになってしまう。
 
忘れられないのは93年に、
浦河は人口1万人ちょっとの小さな町、
昔あった仕事も潰れていくような町、
そんな町で自分たちで、会社を立ち上げようとした時に、
みんなで話し合いをした時に、
みんなそんなことできるわけがないと言っていて、、、
 
みんなやる気が無くてですね、
無理だ無理だ無理だと。
いわゆる健常者たちでも、店やっている人たちが普通に潰れているのに、
私たちは朝起きてもですね、出勤できるかわからない私たちが
会社作ったら一体どうなるんだということで、
みんなやる気がない中で、一人の元気なメンバーさんのおばちゃんがですね
そうだよね、あんたたちみたいな頭おかしい人たちが会社をおこして
世の中うまくいったら、世の中こんなに苦労していないよねと言い放った瞬間に、
みんな心に火がつきまして会社立ち上げようということになったんですね。
 
場違いな発言とか、不規則発言がみんなの心に火をつけるとか、
何が幸いするかわからないということが起きるのが、
場の面白さでもあるんですよね。
 
その苦難を乗り越えるために、
どんなことがあっても一人一人がちゃんと自分に向かって
研究してみようとつぶやく文化を大事にしてきました。
 
 
—— —— ——
 
研究するという発想って、なんで人間って
話し合ったり、悩んだり、考えたり、いろいろするんじゃ無くて、
研究すると、なんで人間って整ってくるんだろう?ということが、
まさに今、私が研究中であります。
 
なんで人間って、対話をすると整うのか、
これは大きな一つ研究のテーマです。
 
研究の仕方をですね、研究ですからひとりひとり全部違ってていい
研究の仕方も、十人十色でそれぞれユニークな研究スタイルをみいだして、
そして発信していただければいいんじゃないかということで。
 
決して、形式化された研究スタイルをみなさんに覚えてくださいと言っているわけでは無くて、
ぜひみなさんに勝手にやって欲しいと思っています。
 
 

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2018.6.18 なんで人間は

なんで人間は、自分の病気に気づかないのだろう。

なんで人間は、自分の幸せが何かわからないのだろう。
なんで人間は、自分の思うように行動できないのだろう。
 
なんで人間は、自分の気持ちを正確に言葉にできないのだろう。
 
人間は、自分のことなのに、自分のことが分からない。
 
人間は、自分のことを正確に見ることができない。
 
自分のことなのに、自分が分からない、自分が見えないなんて不思議だ。
 
と思うと、その前に、そもそも自分って?という問いから始めたほうがいいと思った。

2018.6.17

今年の田植えを無事終えることができました。

田植えをしてると、
いろいろな生き物に出会う。
 
そういう命のおかげでお米が育っていく。
 
何か1つの命が特別大切だとは思わない。
 
ミツバチだって、
ミミズだって、
オケラだって、
蜘蛛だって、
てんとう虫だって、
バッタだって、
カエルだって、
 同じくらいみんな大事なのだと思う。
 
何かの命を守ろうとする想いは大事だと思う。
だけれど、その1つの命が特別的なものでないということを、忘れたくない。
 
1つの命が直接的に僕たちに影響を起こさなくとも、
その命は必ず繋がっているのだから、
 
1つの命を守ることは、
1つの 命の特別視することではない。
すべての命が同じくらい、みんな大事で、
みんなつながっていることを忘れたくない。
 

2018.6.12 言葉におさまりきらない言葉

言葉に収まりきらない言葉

 
僕は何か言葉として、自分の思いや気持ちを表現すると、
その言葉に収まりきれなかった自分の中にある思いや、
考えや気持ちがあることに、もやもやしたり、落ち込んだりする。
 
でも、自分の言葉が足りなかったと感じた時でも、
そんな自分の気持ちや思いが相手に伝わっているなと思う時だってある。
 
そういうときは、その人との関係性が、
言葉の力に頼っていないときなんだと思う。
 
言葉に力を持たせたとき、
人と人は言葉によって関係性を構築する。
そうすると、言葉に収まりきれなかった気持ちを、
汲み取ろうとする姿勢がなくなってしまう。
 
国会とか、芸能ニュースとか、
なんだか言葉に力を持たせすぎているようにみえる。
 
人の気持ちや考えなんて、
いつも変化しているし、
そんな簡単に言葉によって区切ることなんてできない。難しい。
 
だから、言葉を絶対視せずに、
その言葉に収まりきなない思いや考えを、
汲み取ろう、感じようとすることこそ、
相手と知ろうとすることだし、
相手に近づこうとすることなのだと思う。
 
人と人は言葉に頼って関わることが多いけれど、
言葉に力を持たせずに、
その言葉を鵜呑みせず、その言葉に収まらなかった
言葉にも耳を傾けたいと思った。

 

福岡正信91歳「いろは革命歌」抄

 

い 一番初めに捨てりゃよい 手錠の時計 足かせ金

 
ろ 論より証拠 粘土団子の種蒔けば 地球はもとのパラダイス
 
は 恥ずかしいのは 人間ばかりが偽物造り 悪銭身につけ 浮名を流す
 
に 煮ても焼いても食えない時間(とき)と 箸にも棒にもかからぬ空間(もの)もてあまし
 
ほ ほっとけ仏 ほっとけないのがおまえさん 閻魔出てこいこの世の地獄 正邪善悪裁く人が無し
 
へ 兵は兵器で滅ぶと知りながら 儲かる兵器造りが止められず
 
と とうとう来たか 世も末か 原爆まいて 自然も人も 皆殺し
 
ち 智慧と知識は違うぞなもし 知識集めじゃ 智慧滅ぶ
 
に 知恵の木の実は 蛇の知恵 のらりくらりと 横道それる
 
ぬ 理屈 屁理 屈馬のわら靴 日ごとに変わる 使い捨て
 
る 抜き足 差し足 恋泥棒は猫のこと 今じゃ国泥棒が大流行
 
を 流転の生死 心の迷いは 遺伝子操作じゃ片づかん

さ 桜咲いても 散るのは早い 人間だけが 無駄花咲かして 憎まれる
 
き 聞く耳持たず 話もしない 山川草木 秘め言葉 天知る 地知る
 
ゆ 行くも帰るも 一所不住の渡り鳥 自由自在に ただ生きて
 
め 目玉二つで きょろきょろするな 心眼一つでこと足りる
 
み 見たい聞きたい知りたいが仇となり 溺れて死ぬる 知恵の海
 
し 死ぬる生きるは 大間違いで 生きて万歳 死んで万歳
 
え 偉い賢い 善い悪い 人の分別基準がなけりゃ 何が善いやら悪いやら
 
ひ 人の一生はただ一度 片道切符で どこに行くやら 帰るやら
 
も 問題にならぬ問題こそが重大事 なぜに人間ばかり 働くために学び苦労す
 
せ 急くな騒ぐな 自然にまかせ 人知人為を捨てりゃよい
 
す すったもんだで 苦渋(九十)の坂越えた あとは放っときゃ 仏になれる
 
ん 運がつきたか 地球の命運 この一瞬 たった独りで のたれ死に
 
  運のつき 神と自然と人を分別し ちりじりばらばら 地球が滅ぶ
 
  からす カアカア ねぐらに帰る 枯葉散ったか 雀飛んだか 冬の日だまり
 
  日が暮れる お日様ばいばい 木の葉がゆれる 今夜の雀のお宿

2018.5.7 鉛筆削り

本当に小さなことなんだけれど、

プリントに取り組む前の「鉛筆削り」はとても重要だと思う。

 

今、取り組んでいるプリントのめやすの時間は15分

 

問題を15分も解いていたら1本の鉛筆は、

問題を解くにつれて丸まってくる。

 

だから、プリントに取り掛かる前に鉛筆をしっかり削ってのぞむことが

とっても重要だということは、きっと幼い子どもでも理解できる。

 

だけど、毎日プリントに取り組む中で、

この鉛筆を削る作業をせずにプリントに取り組むことも多い。

鉛筆の先は丸まってきて解きにくくなるのにもかかわらず、

鉛筆を削らずに取り組む日があるなんて、我ながら不思議に思う。

 

逆に、自然と鉛筆を削ろうと体が動く時もある。

 

1枚のプリントをやるだけなのだけれど、

それに対して毎日違った自分が生まれてくるのは、

このプリントの面白いところだ。

 

感覚を研ぎ澄ます。というのはこういうことなのかもしれない。

鉛筆に対して重要性を感じていない時は、

鉛筆にまで感覚が行きわたっていない状態なのだろう。

 

逆に、鉛筆を自然に削るというのは、

鉛筆に対して感覚が働いているのだと思う。

 

そうやって、1枚のプリントに対して、

どれだけ自分の体が働いて、

体全体でプリントに取り組めているか?

頭でなく、体全体で学べる教材ともいうことができるなと、

鉛筆削りという行為から感じた。