そのまんまたろうのブログ

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Sonomamma Taro no Blog

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2018.6.18 なんで人間は

なんで人間は、自分の病気に気づかないのだろう。

なんで人間は、自分の幸せが何かわからないのだろう。
なんで人間は、自分の思うように行動できないのだろう。
 
なんで人間は、自分の気持ちを正確に言葉にできないのだろう。
 
人間は、自分のことなのに、自分のことが分からない。
 
人間は、自分のことを正確に見ることができない。
 
自分のことなのに、自分が分からない、自分が見えないなんて不思議だ。
 
と思うと、その前に、そもそも自分って?という問いから始めたほうがいいと思った。

2018.6.17

今年の田植えを無事終えることができました。

田植えをしてると、
いろいろな生き物に出会う。
 
そういう命のおかげでお米が育っていく。
 
何か1つの命が特別大切だとは思わない。
 
ミツバチだって、
ミミズだって、
オケラだって、
蜘蛛だって、
てんとう虫だって、
バッタだって、
カエルだって、
 同じくらいみんな大事なのだと思う。
 
何かの命を守ろうとする想いは大事だと思う。
だけれど、その1つの命が特別的なものでないということを、忘れたくない。
 
1つの命が直接的に僕たちに影響を起こさなくとも、
その命は必ず繋がっているのだから、
 
1つの命を守ることは、
1つの 命の特別視することではない。
すべての命が同じくらい、みんな大事で、
みんなつながっていることを忘れたくない。
 

2018.6.12 言葉におさまりきらない言葉

言葉に収まりきらない言葉

 
僕は何か言葉として、自分の思いや気持ちを表現すると、
その言葉に収まりきれなかった自分の中にある思いや、
考えや気持ちがあることに、もやもやしたり、落ち込んだりする。
 
でも、自分の言葉が足りなかったと感じた時でも、
そんな自分の気持ちや思いが相手に伝わっているなと思う時だってある。
 
そういうときは、その人との関係性が、
言葉の力に頼っていないときなんだと思う。
 
言葉に力を持たせたとき、
人と人は言葉によって関係性を構築する。
そうすると、言葉に収まりきれなかった気持ちを、
汲み取ろうとする姿勢がなくなってしまう。
 
国会とか、芸能ニュースとか、
なんだか言葉に力を持たせすぎているようにみえる。
 
人の気持ちや考えなんて、
いつも変化しているし、
そんな簡単に言葉によって区切ることなんてできない。難しい。
 
だから、言葉を絶対視せずに、
その言葉に収まりきなない思いや考えを、
汲み取ろう、感じようとすることこそ、
相手と知ろうとすることだし、
相手に近づこうとすることなのだと思う。
 
人と人は言葉に頼って関わることが多いけれど、
言葉に力を持たせずに、
その言葉を鵜呑みせず、その言葉に収まらなかった
言葉にも耳を傾けたいと思った。

 

福岡正信91歳「いろは革命歌」抄

 

い 一番初めに捨てりゃよい 手錠の時計 足かせ金

 
ろ 論より証拠 粘土団子の種蒔けば 地球はもとのパラダイス
 
は 恥ずかしいのは 人間ばかりが偽物造り 悪銭身につけ 浮名を流す
 
に 煮ても焼いても食えない時間(とき)と 箸にも棒にもかからぬ空間(もの)もてあまし
 
ほ ほっとけ仏 ほっとけないのがおまえさん 閻魔出てこいこの世の地獄 正邪善悪裁く人が無し
 
へ 兵は兵器で滅ぶと知りながら 儲かる兵器造りが止められず
 
と とうとう来たか 世も末か 原爆まいて 自然も人も 皆殺し
 
ち 智慧と知識は違うぞなもし 知識集めじゃ 智慧滅ぶ
 
に 知恵の木の実は 蛇の知恵 のらりくらりと 横道それる
 
ぬ 理屈 屁理 屈馬のわら靴 日ごとに変わる 使い捨て
 
る 抜き足 差し足 恋泥棒は猫のこと 今じゃ国泥棒が大流行
 
を 流転の生死 心の迷いは 遺伝子操作じゃ片づかん

さ 桜咲いても 散るのは早い 人間だけが 無駄花咲かして 憎まれる
 
き 聞く耳持たず 話もしない 山川草木 秘め言葉 天知る 地知る
 
ゆ 行くも帰るも 一所不住の渡り鳥 自由自在に ただ生きて
 
め 目玉二つで きょろきょろするな 心眼一つでこと足りる
 
み 見たい聞きたい知りたいが仇となり 溺れて死ぬる 知恵の海
 
し 死ぬる生きるは 大間違いで 生きて万歳 死んで万歳
 
え 偉い賢い 善い悪い 人の分別基準がなけりゃ 何が善いやら悪いやら
 
ひ 人の一生はただ一度 片道切符で どこに行くやら 帰るやら
 
も 問題にならぬ問題こそが重大事 なぜに人間ばかり 働くために学び苦労す
 
せ 急くな騒ぐな 自然にまかせ 人知人為を捨てりゃよい
 
す すったもんだで 苦渋(九十)の坂越えた あとは放っときゃ 仏になれる
 
ん 運がつきたか 地球の命運 この一瞬 たった独りで のたれ死に
 
  運のつき 神と自然と人を分別し ちりじりばらばら 地球が滅ぶ
 
  からす カアカア ねぐらに帰る 枯葉散ったか 雀飛んだか 冬の日だまり
 
  日が暮れる お日様ばいばい 木の葉がゆれる 今夜の雀のお宿

2018.5.7 鉛筆削り

本当に小さなことなんだけれど、

プリントに取り組む前の「鉛筆削り」はとても重要だと思う。

 

今、取り組んでいるプリントのめやすの時間は15分

 

問題を15分も解いていたら1本の鉛筆は、

問題を解くにつれて丸まってくる。

 

だから、プリントに取り掛かる前に鉛筆をしっかり削ってのぞむことが

とっても重要だということは、きっと幼い子どもでも理解できる。

 

だけど、毎日プリントに取り組む中で、

この鉛筆を削る作業をせずにプリントに取り組むことも多い。

鉛筆の先は丸まってきて解きにくくなるのにもかかわらず、

鉛筆を削らずに取り組む日があるなんて、我ながら不思議に思う。

 

逆に、自然と鉛筆を削ろうと体が動く時もある。

 

1枚のプリントをやるだけなのだけれど、

それに対して毎日違った自分が生まれてくるのは、

このプリントの面白いところだ。

 

感覚を研ぎ澄ます。というのはこういうことなのかもしれない。

鉛筆に対して重要性を感じていない時は、

鉛筆にまで感覚が行きわたっていない状態なのだろう。

 

逆に、鉛筆を自然に削るというのは、

鉛筆に対して感覚が働いているのだと思う。

 

そうやって、1枚のプリントに対して、

どれだけ自分の体が働いて、

体全体でプリントに取り組めているか?

頭でなく、体全体で学べる教材ともいうことができるなと、

鉛筆削りという行為から感じた。

 

2018.6.2 「なんで計算プリントなんですか?」

「なんで計算プリントなんですか?」
「計算プリントでなくても、日記とか文章とか
そういうものでも、よかったのではないですか?」

という質問を、大学生がしてくれた。

「毎日何かを続ける」というやり方であれば、
らくだメソッドでなくても、いいのかもしれない。

けれど、この「らくだメソッドだからこそ」という点も
もちろんあるように感じている。

それを、「できない体験」という点から考えてみる。

たとえば、毎日文章を書くことや、
毎日掃除をすることを毎日続けた時にも、
「できない体験」は毎日続ける中で必ず体験できるだろう。

文章が書けなかった日、文章が書けても少ししか書けなかった日、
掃除ができなかった日、掃除ができても、少し雑になってしまった日。

こういった、できない体験ができるのかな?と思った。

ただ、この「できない体験」は、
どこまで明確にその「できなかった事実」を自分は自覚できるだろうか。

文章が「うまく書けた」「うまく書けなかった」
この「できる⇄できない」の境界は一体どこにあるのだろうか?
掃除が「きれいにできた」「きれいにできなかった」
この「きれいにできる⇄きれいにできない」の境界は、一体どこにあるのだろうか?

こうやってみていくと、「できない体験」というのは、
意外と曖昧な自分の認識の上に存在していて、
何ができるというのか、
何ができないというのか、が
曖昧なのにもかかわらず、できないことに落ち込み、できることに喜んでいることが多いのかもしれない。

じゃあ、「らくだめそっどだからこそ」のできない体験とはなんだろうか?

大学生に問われて、毎日続けることが
「算数」=「数字」であることでみえてくることがあるのだと思った。

らくだメソッドで、生まれるできない体験は、
「今日はプリントができたか、できないか」
「プリントは目安の“時間”でできたか、できないか」
「ミスは3問以内でできたか、できないか」

時間や、ミスの「数」を基準に自分の「できない体験」つかむことができる。
できる⇄できない の境界も、
めやすの時間や、ミスのめやすを設定することで、
自分の認識としての「基準」ではなく、(認識はいつも変わってしまう)
「数字」としてその基準を設定することができる。

だから、いつも基準はぶれずに、
できる⇄できない の現実=事実をつかむことができる。
「今の自分」がその現実を間違えなく作り出しているのだから、
その事実をつかむことで、「今の自分」をつかむことできる。

ただみてみると、
計算プリントに取り組んだ時間帯、解くまでにかかった時間、ミスの数 だけなのだけれど、自分の事実を「数字」として残すことの意味はとても大きいのだと思う。

自分がこの今の現実を生み出しているのは間違えないことなのだけれど、
その「今」の事実を、正確に見つめることは意外と難しい。
僕たちはいろんな意味づけを、自分自身にもしていて、
自分の都合のいいように自分をとらえている。
逆に、その意味づけで自分を苦しめていることだって多い。

だけれど、その意味づけすら一旦横に置いておいて、
自分の事実をただ見つめてみる。

そうすることで、自分の都合のいい見方、捉え方を超えて、
自分はどうしたいか、はじめて自分自身に問うことができるのだと思う。

この1枚の計算プリントは、
自分の事実をつかみ、そこから自分をみつめ、
自分と向き合うことができるツールとして、
大きな意味を持っているのだとあらためて感じた。

 

2018.5.25 5月のふりかえり

5月のふりかえり

 
5月のプリントの学習を振り返ってみる。
5月は、おそらくこの学習を開始して、
 プリントができなかった日が一番多かったように思う。
 
この5月を振り返ってみると、
様々なことがあった。
実家の静岡で畑と家を借りられるようになったり、
主催のまなゆい合宿イベントが予定されていたり。
 
毎週毎週実家に戻ったり、
県外へいく予定があったりと、
ばたばたした月だったように思う。
 
こういう状況下で、らくだのプリントに対して
「まぁ今日はいいか。」という気持ちになることが多い。
 
でも、らくだのプリントを忘れた日は1日もない。
 
1日のどこかで必ず、「まだ今日はプリントに取り組んでいないな」という事実に直面する。
だけれど、そのまま夜になり、
「まぁ今日はいいか」という気持ちになる。
 
1日の中で、畑の作業が進んだり、
イベントの準備を進めることができたり、
何か1日の中で「できた」という自分の中での
充足感があると、その充足感に浸り、
らくだのプリントに対して「まぁ今日はいいか」という
思いが浮かび上がってくるように思う。
 
1日の中のどこかで満足できれば、やらなくてもいい。みたいな、
そういう物事に取り組む姿勢が僕の中にはあるように思う。
 
そう思うと、自分がらくだのプリントができない理由は、
らくだの計算プリントが面倒くさいとか、
嫌とか、難しいとか、そういうプリント自体が理由ではないのかもしれない。
 
計算プリントにそのできない理由があるのではなく、
そのできない理由は、あくまでも自分の状況ができない理由を
 生み出してしまっているということがわかる。
 
今月は、さまざまな目に見える成果を得ることができた。
 
それは、畑や家を借りることができるようになった。
まなゆい合宿イベントがいい手応えで終わることができた。
 
一方で、自分の中で「できなくなった事実」が浮かび上がっていることを
常に意識していたいとおもう。
 
一時的に何かがうまくいっているときこそ、
日常の中にある何かが、おろそかになり、
うまくいかなくなっていることが多いようにおもう。
 
そういう、目に見える成果の一方で、
失われたり、おろそかになっている現状に気づかせてくれる1日1枚のプリントは、
常日頃、自分を観察し、自分で気づき、自分で学ぶために、
僕の日常の中に馴染んだ学びのツールだ。