「さをり織り」レポート *自分が答えをもっているそのことに迫ろう。
「さをり織り」レポート *自分が答えをもっているそのことに迫ろう。
現代は、多くの情報が氾濫している時代である。自分が必要とするようなモノやアイデアは、いろんな情報メディアをさがせば、だいたいどこかにあるような気がする。けれども、本当に自分にぴっ たりあった情報や、すぐに役立つ創造的なアイデアは、簡単には手に入らないものだ。
そんなときはどうすればよいだろうか。何かに頼る、何かにすがる、何かをまねる。そういった行為で、求めるものが一見、簡単に手に入りそうに見える。しかし、それはあくまで、他人が求めてい るものを、自分が求めているものにおきかえられているものにすぎない。それでは、そこから得られるもので、自分が心から納得することはできない。 「どうしてよいか分からないことも、困難に挑戦しなければならないことも、失敗を重ねることもある。それらを自分の手で解決した 時に、初めて達成感を味わうことができるのだし、同時に、満足感もまた得られる。 「借りもの、受けうりで、その場その場をなんとかしのいでいくのでは、それ以降につながる成果は少ない。というのも、重要なのは、 結果だけではないからだ。むしろ、試行錯誤をしたり、あれこれ悩 んだその経過にこそ、大きな意味がある。だからこそ、他に頼る前に、一見遠まわりに見えても、自分の中に求めるものをさがす姿勢 が必要だ。 「そういう姿勢を身につけないと、ものの考え方に自由になれず、自分の考え、気持ちというものがなくなってしまう。自由であることは責任をもつことであり、それは、自信へとつながる。そうして、自分の内から生ずる柔軟な発想のもとに、固定観念や定説にしばられず、自分なりの考えをもつことは、自分の考えや行為、感情に責任をもつことである。そうした経験の積み重ねが、自信となる。 このことは、さをりをしているとよくわかる。織り方の技術や要 領などの知識の吸収にばかり気をとられていると、従来他の人がつくった作品と同じようなもの、あるいはその発展したものしかでき ない。そういったものから自由になり、自分の今までの経験や、 性に素直になり、内から生ずるものに頼って織るのをすばらしいと するさをりは、織っていて、楽しく、引きこまれる。
さをりを織ることは、一から自分で「自分」という存在のストー リーを織りつづってゆくことだと思う。あらかじめじぶんの属性を確定してくれるような財産、つまり、織り方の知識なしに、自分で ストーリーを、織りつづってゆくしかない。だから必死であり、これと決めた一つのストーリーにぐいぐいのめり込んでいく。そのことで、それ以外の可能性を忘れることで、じぶんを支える。そして、そのストーリーも、語り方によって、解釈の与え方によって、ちが う相貌をしめしてくれるようになる。
自分の欲する答えを自分の内部に向け、そこになにか自分だけに 固有なものをもとめる。だれかある他者にとっての他者のひとりの 自分といった、他者との比較、関係から自分と他人との差をつくり、 他人の中に自分の場所を確認するのではない。一から自分を問い、 揺さぶり、自分という存在がもつ意味について考える。
感力へのめざめ 著:城みさを
「内臓とこころ」三木成夫 文庫版解説 情が理を食い破った人 養老孟司
「内臓とこころ」三木成夫
文庫版解説
情が理を食い破った人 養老孟司 (P201)
久しぶりに三木先生の話を読んで、先生の語り口を想いだした。三木先生の語り口は独特で、それだけで聴衆を魅了する。東京大学の医学部である年に三木先生に特別講義を依頼したことがある。シーラカンスの解剖に絡んだ話をされたが、講義の終わりに学生から拍手が起こった。後にも先にも、東大医学部の学生を相手にしてそうい う経験をしたことは他にない。三木先生の話は、そういうふうに人を感動させるものだった。ご本人の表現によれば、「はらわた」の感覚で話をされたからであろう。聴衆はまさに「心の底から」動かされるのである。それに対して通常の講義は「体壁系の脳」から出るから、「はらわた」に沈みないことが多い。つまり「理に落ちて」しまう。 …
情理ともに兼ね備えることはなかなかむずかしい。理に落ちてはつまらないし、情が先走っても困る。漱石が書いたとおりで、知に働けば角が立ち、情に棹させば流さ れる。自然科学は理性一本ということになっている。でもじつは裏にさまざまな情があって、そこに人間の品格の問題が隠れているように思う。品格を決めるのは、たぶ ん情理そのものではない。両者のバランスであろう。学者としての三木先生はそこの バランスが見事な人だった。むろんあそこまで行くには、さまざまな苦労があったに違いない。普通の科学者なら、情は徹底して押さえ込んでしまう。でも三木先生はそこをいわば情が食い破った人なのである。だから書くことや言うこと、つまり表現がホンネとなって、人を打つ。この講演でもシモの話がよく出てくるが、聞いているほ うは素直に笑っている。品の悪い話にはならないのである。
現代社会では、理の話は腐るほどある。でもそれを上手に動かす情が欠けている。 シラけるとは、それをいうのであろう。シーラカンスの解剖のような、日常とまったく縁のない話をしているのに、聞いている学生がその話に吸い込まれてしまう。まったくシラけない。これはいったいどういうことか。当時の私はよくそう思ったものである。そのシーラカンスと現在をつなぐものが、三木先生の情である。子どもさんへ の愛情と同じで、シーラカンスやそれが象徴する生命の長い歴史への先生の愛情が、表現の隅々から伝わってくる。その生命のなかには、むろん生物としての現在の自分も含まれている。それを単なる理屈で語らないところが、三木先生なのである。
以下は老婆心である。この本を読むときに、現代の生物学の本を読むようなつもりで読まないで欲しい。生きものとわれわれをつなぐものは、ただ共鳴、共振である。 それを三木先生は宇宙のリズムと表現した。共振はどうしようもないもので、同じリズムで、一緒に動いてしまう。三木先生はおそらくその根拠を追究し、長い生命の歴史のつながりを確認したのである。二十一世紀の生物学は、おそらく生きもののそうしたつながりを確認する方向に進むはずである。またそうなって欲しいと思う。
三木先生はゲーテのメタモルフォーシス、生物学でいう変態にも、強い関心を持たれていた。昆虫の完全変態とは、じつは寄生性の昆虫と、ホストの上手な合体ではないかという現代の仮説を紹介したら、三木先生は大いに喜ばれたに違いないと思う。 私がそう説明したときの、三木先生のホーッという顔が目に浮かぶような気がする。 そうだろう、そうでなくてはいけない。間違いなくそういわれそうな気がするのである。これも実際にそうだとすれば、生きもののつながりの典型的な一例である。十九世紀以来の生物学は、ルネッサンス以降の西欧文明の常識を背景にしてきたから、生きものそれぞれの個に注目してきた。しかし当然ながら、生きものはそれ単独で生きているわけではない。かならず生きものに囲まれて生きているのである。その感覚がなくなったのは、水田や杉林を見慣れている現代人だからであろう。杉だって、稲だって「それだけで生きている」とつい思わされてしまうのである。
まもなく三木先生の時代がまたやってくる。そんな気がしてならないのである。
自分のつかみかた
仕事を夜遅くまでやりすぎて、
プリントができない時がある。
仕事を夜遅くまでやりすぎても、
プリントができる時がある。
プリントが難しいから、いつまでたってもプリントに取り組めない時がある。
プリントが難しくても、すっとプリントに取り組める時がある。
お酒を飲んでしまったから、
プリントができない時がある。
お酒を飲んでしまっても、
プリントができる時がある。
やることはいたってシンプルで、
「1日1枚のプリントに取り組む」ということ。
だけど、その1枚のプリントによって事実がつくられる。
その事実には、「自分」という存在の今が記録されている。
自分で自分を見ることは難しい。
けど、こういういたってシンプルなことを、
「やると決めて」
自分の今を事実によって記録させていく。
そうすれば、だんだんと自分が見えてくる。自分を掴んでいける。
そして、自分の人生をデザインしていける。
小6-16 四則混合
小6-16 四則混合
小6-16四則混合の計算プリントに取り組んでいる。
このプリントには、以下の3つのメッセージがプリント内に書かれている。
「( )の中を先に計算する」
「途中式も書きなさい」
「足し算・ひき算より先にかけ算・わり算」をする」
これまでのプリントは、四則混合問題はなかったため、
初めて問題に取り組む子どもはきっとこのプリントで、
足し算や、ひき算を先に解いてしまったり、
( )を優先して解かず解いてしまったり、
そういうミスをするのだと思う。
僕はすでに四則混合問題を解いたことがあるし、
( )を優先して解かくことも、
足し算・ひき算より先にかけ算・わり算をすることも、
すでに分かっている。
だから、問題を初めて解いたとき、
この3つのメッセージを「流し読み」していた。
メッセージの意味は分かっていたのだけれど、
めやすの時間内でクリアすることが「できなかった」
そのとき改めて、このメッセージをしっかりと読んだ。
結局僕は、「分かっていたけど、できなかった」
そんな状態は、「分かっているとはいわず、実は分かっていないのではないか?」と思った。
なぜ時間内にできなかったのか?というと、
やはり、( )や、掛け算・わり算を優先して解くときに、
「迷い(本当にここを優先して解いていいのか?)」みたいなものが生まれる。
だから結果として時間をロスしてしまっている。
その状態は、果たして
・( )を優先して解くこと
・足し算・ひき算より先にかけ算・わり算をすること
を“分かっている”と言えるのかどうか。。。
“分かっている”という認識はとても曖昧で、
自分が「分かっている」と思っているだけなのだと思った。
そして、この「分かっている」という認識は、
僕の「流し読み」という行為の原因でもある。
このプリント内のメッセージを「読む」という行為は
情報を取り込む、認識するという行為である。
それは、「聞く」という行為と重なる点があるように思う。
そう思うと、「分かっている」という認識が
「聞く」という行為にも、かなり大きく影響しているように思う。
できない時間
時間が積み重なるだけで、
もうすでに、何物にも変えられない価値が生まれるように思う。
たとえ同じできないことであったとしても、
1年できなかった経験と、
10年できなかった経験とでは、
その時点で、まったく別のものであって。
できない事柄だけでなく、
できない期間ということもまた、
とっても大きな意味をもつ。
だから、たとえ今ができない時間の中にいたとして、
もうその時間の中にいるだけで、
できない時間が積み重なっているからこそ、
生まれるものがあるのだと思う。
スムーズにプリントに取り組めない。
最近、なかなかスムーズにプリントに取り組めない。