また、なぜ人は悪をなすか、ということについても「嘆異抄」の中で親鸞は言及しています。
「あるとき、親鸞が唯円に『お前は俺の言うことなら何でも聞くか?』と言った。唯円は『お師匠さんの言うことならなんでも聞きます』と答えると、親鸞は『じゃぁ、人を千人殺してみろ』と言った。唯円は正直に『いや人を千人殺せと言われても、一人の人間さえ殺すだけの気持ちになれないし、それだけの度量もないから、それはできません』と答えた。親鸞は『いま俺の言うことはなんでも聞くと言ったのに、もう背いたじゃないか。そういう風に業縁がなければ一人の人間さえ殺せないものだ。だけど、業縁があるときには、一人も殺せないと思っていても千人殺すこともあり得るんだよ』と言った」
僕は機縁と訳していますが、仏教の言葉では業縁と言っています。つまり、一人のときにはたった一人も殺せないのに、例えば戦争になると百人、千人殺すことはあり得る。それはその人自身が悪くなくても、機縁によって千人も殺すということはあり得る。だから、悪だから救われない、善だから救われるという考え方は間違えだ、ということです。これはすごくいい言い方だと僕は思いました。(真贋 p62から引用)
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自分の心は、
目の前の他者との関係の中で生まれることもあるし、
自分が住む日本という国との関係性、
自分が働く職場との関係性、
さまざまな関係性の中でどうしても生まれてしまう。
だから自分の心は、そんな関係性をきっかけに
常に変化していくものなのかもしれない。
そして、自分もまた必ず何かしらの影響を与えてしまっている。
誰かの「こころ」を生み出してしまっていると考えられるように思う。
悪というものが、個人の中にとどまるもののように見えて、
その悪は、個人を超えて、
個人に関わる縁によって生まれてくるものであると考えると、
悪というものを個人の中にあるものとして、
その悪をもつ個人を罵倒するということも、
どこか限界があるのではないか。
そう思うと、誰かの気持ちを考えること、
誰かを思いやることというのは、
その人のことを、その人以上に飛び越えてみることなのだと思う。
そうやって、目の前の人や物事に対して、
これだと決めつけず(それがたとえ相手にとって良いと思われることだとしても)
広がりも持った眼差しで、その人のことや、物事を見つめられることが、
何よりも優しいことだなと感じる。