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まなゆい 子どもを寝かしつけるように聴く

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子どもを寝かしつけるように聴く

 
聴き方には、いろいろな聴き方がある。
その中で、ただ聴くというのは、
子どもを寝かしつけるときのあり方に似ているのではないかと思いました♩
 
** **
 
小さな子どもはひとりでは眠りにつけない。
お母さんが隣にいてくれて、
お母さんがいてくれる安心感を感じていないと、
ひとりではなかなか眠りにつけない。
 
お母さんの存在を感じながら、
徐々に意識が自分の中に落ちていく。
そしていつしか、お母さんの存在を忘れて眠りにつく。
 
「ただ聴く」というのは、
この子どもを寝かしつける感覚にとっても似ていると思う。
 
邪魔にならないように、
ただ横にいてあげる。
何もしなくてもいい。ただ聴いている。
 
そうすると、目の前の人はだんだんと自分の中に意識が落ちて、
自分との対話が始まる。
 
そこまでいけばもう、
目の前の人は自分で自分に問いかけて、
自分の中にある言葉を見つけることができる。
自分で自分の考えを整理することができる。
 
子どもを寝かしつけるときのように、
目の前の人が自分と向き合えるように、
邪魔をせず、ただ一緒にいてあげる。
そしてただただ聴いてみる◯
 
 

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1枚のプリントから生まれる気づき

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らくだの学習のなかで、

1枚のプリントから、
 自然とさまざまな気づきが生まれてくる。
 
この僕の気づきは一体どこにあるのだろうか?
 
この「プリント」が最強の教材で、
これをやれば、ひたすらに気づきがゲットできるのか?
 
そんなことを思ってみた。
 
たとえば、僕が山にこもり、このプリントをもって一人で
らくだの学習をした時に、こういう気づきが生まれるのか?
と思うと、そんなことはないだろう。と思う。
 
** ** **
 
毎週1回、中村教室に通塾し、井上さんや同じ学びを深めている人との対話ができる場がある中で、この1枚のプリントが、僕の1日の中にある。ということが、僕から「気づき」や「言葉」が溢れ出てくることにとっても大きな意味があるのだと思う。
 
僕にとっての、らくだメソッドの計算プリントは、「ただの1枚の計算プリント」という意味では収まらず、そのプリントの向こうには、さまざまなものが関わり混じり合っている。
 
それは、同じ学習を深める仲間との関係性や、教室で読んだ「本」との関係性、教室での対話内容、僕自身のこれまでの経験…
 たくさんのものが関わり混じり合う中で、この1枚のプリントが1日の中にある。
 
そう思うと、自分から溢れ出る「気づき」は僕が生み出したものでもなく、プリントの中に仕組まれた「気づき」でもなく、
僕と関わってくれている人やもの、こと、
その関わり混じり合う、さまざまなものの存在によって生み出されたものなのだろう。
 
僕がプリントと向かい合うとき、
1枚のプリントの向こうには、
時空を超えて、さまざまなものとつながりあっている。
 
僕が今以上に時間を超えて、空間を超えて
プリントの向こう側にあるものを深めることができたら、
プリントを通して、僕から溢れてくる気づきや、言葉はもっともっと深いものになっていくのかもしれない。
 
** ** **
 
そんなことを思うと、
僕自身から溢れてくる言葉や気づきって、
とっても大きなものだと思うと同時に、
目の前の人から溢れる気づきや、言葉ってものを、
本当に本当に大切にしたいと思いました。
 
 

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手段が目的にならない問題構造

 

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「手段が目的にならない問題構造」

 
小5-17 分数のたし算(11) めやす12分
 
** ** 
 
この問題は、2つの数字の最小公倍数を求める問題になっている。
そのプリントの最初の5問は、
最小公倍数を導き出す「手段」を理解する問題になっている。
 
具体的には、2つの数の 最大公約数を求め、
 それぞれをその最大公約数で割り、
その商と最大公約数を掛け合わせるという、
最小公倍数を求めるというやり方である。
 
そのやり方を最初の1〜5問までで、
穴埋め式の問題で理解できるようになっている。
その時点で、最小公倍数を導き出す「手段」が頭の中に入る。
 
** **
 
このひとつの「手段」を手に入れると、
どんな問題も、その「手段」で問題を解こうとする自分がいる。
 
この1枚のプリントは、
この「手段」を用いなくても、
簡単に答えが求められる問題が数多く挟まれている。
 
例えば、(8,20)という問題。
すぐにその「手段」を用いなくても「40」と答えを求められる。
 
だけれど、最初の「手段」を理解したことで、
「その手段で解く」という意識が強まっていくと、
(8,20)という簡単な問題でも、
その手段で挑もうとしてしまう。
 
すると、解くスピードも、リズムも悪くなる。
 
この問題の構造(手段を用いる問題と、用いらない問題をそれぞれバランス良くランダムに入れてあるといこと)は、
目的は「最小公倍数を求めること」であり、
 あくまでも、その「手段」を学んでいるということに気づかせてくれる。
 
** **
 
この1枚のプリントの構造自体が、
「手段が目的化」しないためのヒントでもあると思いました。

 

納得感はどこからくるのか⑵

納得感はどこからくるのか⑵

 

6月に入って、らくだのプリントがなかなかできない日が多くなった。

プリントをやるまでに、
体がなかなか動かなかったり、
後回しにしてしまうことが多い。
 
5月までは、比較的毎日スムーズにできていたのに、
なぜプリントと向き合うことができなくなったのか?思っていて、
その理由がいまひとつ分からずにいた。
 
** ** 
 
今日、そんな自分を見つめて、やっと気づいたことがあった。
 
今のプリントと向き合えない(やりたいと思えない)ことの理由の1つに、
自分の体感覚としての納得感、心地よさを
プリントを通して得られなくなっているということがあるように思う。
 
プリントの結果をみると、
 目安の時間内で、ミスも3問以内でクリアできている。
 
けれど、スラスラ流れて解けないことに対して、
1枚のプリントがまだ「できていない」という認識が強くなってきている。
 
以前は、スピード感をもって
「頭で考えて解く」というよりも、
「体で解く」というような感覚で問題を解いてきた。
 
けれど、ここにきてなんだかその感覚でプリントができないから、
1枚のプリントを終えた時の心地よさみたいなものが得られない。
 
だから、今の僕は1枚のプリントに対する気持ちが落ちている気がする。
 
** **
 
そんな自分に気づいたときに、
以前のプリントと、今のプリントに対する納得感を、
同じ基準から見ているということに気づいた。
 
以前の問題は、「約分」であったのだけれど、
今取り組んでいる問題は、「分数の足し算」で、帯分数への変換や約分もある内容であり、ただの「約分」とは全く違った問題である。
 
なのに、僕は「約分」のプリントで味わえた感覚を、
今取り組んでいる問題にも求めていて、
問題のレベルや形式がかなり異なっているのにも関わらず、それに気づかず、以前の納得感の基準から、今のプリントから納得感を得ようと思っていたのだと思う。
 
今取り組んでいる、「分数の足し算」の問題のレベルや構成をよく見てみると、
 
以前取り組んだ、「約分」を「変換の問題」としたら、
今取り組んでいる「分数の足し算」は、
「過程を経て解く問題」のように思えてきて、
時間がかかっても、頭で考える時間が生まれても、
あまり悪くないような気もして、
スラスラ解けないからといって、
心地よさを得られないことはないと思えるようになった。
 
** **
 
これも、らくだの計算プリントに限らず、
よくはまるパターンのように思う。
 
以前うまくいったこと、その時の感覚にとらわれて、
全く違った状況なのにも関わらず、そこから物事を判断してしまう。
 
今、自分が感じている達成感や喜び、
また 違和感や劣等感は何を基準に、
 何ももってそれを達成感とし、喜び、違和感、劣等感としているのかをよく見つめていくこと。
 
状況はいつも変わっているのだから、
それはいつもいつも必要なことなのだと、
このプリントを通して気付かされました。
 
** **
 
と書いて、ブログのタイトルを考えた時に、
以前に書いた「納得感はどこからくるのか」という記事と
すこしリンクする部分もあると感じたので、
この記事の「納得感はどこからくるのか⑵」とし、
以前の記事もこちらにリンクします♩
 
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書くこと:「書き始めの気づき」と「書き終わりの気づき」

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書くこと

 
書くことの不思議さをいつも感じる。
「書き始めの気づき」と、
「書いたあとの気づき」の具合がまったく違ってきます。
 
大体は、書いている途中に気づきがやってくる。
 
書き始めたときは、
自分の中で何か「書きたい」と思えるような気づきがあるのだけれど、
 
でも、その「書き始めの気づき」と、
「書き終わりの気づき」が「同じ段階の気づき」であることは
ほとんどなくて、
 
書いていく中で、その気づきが深まっていきます。
 
** ** **
 
「書くこと」というのは、
完結した気づきや、想いを書くこと、
つまり自分の考えていること、気づいたことを「書き写す」ことだけではなくて、
「書くこと」というのは「深める」ということができるように思います。
 
「書く」という行為の過程が深めることであって、
書いている中で、開けていく、見えてくる世界がある。
 
** ** **
 
自分には「書けない」と思ってしまうときがあるけれど、
それは、自分の考えていること、感じていることを
「書き写す」ということを、
「書くこと」としているのかもしれない。
 
でも、「書くこと」で 考えればいいし、感じればいい。
何も持たずして、書けばいい。
 
書きながら、行ったり来たりする。
そうすると自ずと深まり、開けていくかもしれません。
 
書くことは、自分のコピーを作ることではなくて、
自分をさらに深め、広げていくことなのだと感じています♩
 

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はじめてのプリントと2回目のプリント 自分をすこし楽にさせてあげる

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らくだメソッドのプリントは、

基本的には(目安の時間内にミス3問以内)というめやすに達していたら、

次のプリントに進んでいいということが決まっています。

 

けれど僕の場合は、小学校4年生あたりのプリントから、

毎プリント2回は必ずやることにしています。

なので1回でめやすに達していても、

次の日はまた同じプリントに取り組みます。

 

その同じプリントを2日で2枚という進め方をしていることが、

同じプリントなのに、プリントに向かうまでの状況が、

1日目と2日目は明らかに違うということを感じました。

 

1日目はもちろん「はじめてやるプリント」であるけれど、

2日目は「やったことがあるプリント」になります。

 

なので、2日目はおおよそ問題の難しさや、それにかかる時間の見通しがある程度わかっている。

 

けれど、1日目はどんな問題なのか?どれだけ時間がかかるのか?という状態で、プリントをやることになります。

だから、見通しがかなりもちにくい。それが、どこかしらで自分のやるタイミングにブレーキをかけていることがあるような気がしました。

ただ、前日に記録表にはさむ時(次の日やるプリントは、すぐに取り出せるように、前の日のプリントが終わった後に記録表にはさむようにしている)、5秒でもいいからプリントを意識的にみてみる。

 

めやすの時間や、問題数、問題形式。

それだけ5秒でパッと見れば、どの程度のプリントなのかは

少しはイメージできて、自分の中で1枚のプリントの見通しをたてられる。

 

本当に小さなことだけれど、

まったく知らずして、プリントに取り組むのと、

少しだけでも自分の中でイメージできて、見通しが持てているのは、

まったく違った状態に自分がいるのだと感じました。

 

** ** 

 

もちろん、まったく知らずして「実行」する経験だからこそ

現れてくる自分もあると思います。

 

ただ、毎日1枚のプリントをやるとなると、

「記録表に次の日のプリントをはさむこと」みたいな、

そういうちょっとした工夫をして、

自分を楽にさせてあげることが大事なんじゃないかなと思います。

 

** **

 

らくだメソッドの学習を始める前は、

毎日何かを継続するってすごいことだと思っていました。

 

それは継続力というような、継続できる「力」みたいなように思っていたのだけれど、

こういう体験から感じることは、

 

それは、「継続する力」という表現よりも、

 

どれだけ自分を知るというか、気づけるか。

そして、その自分を受け入れて、どうやって自分自身をサポートしていくのか。というようなことなのだと思います。

 

自分自身をサポートしながら「継続」できていることは、

なにも力も強さもいらないし、

頑張らなくてもいい。

むしろ、頑張らずに継続できる。

 

そういった自分自身をサポートできるようになることが、

継続力なのだと今は感じています。

「できる」ようになっているのに「できない」実感が強まること。

「できる」ようになっているのに「できない」実感が強まること。

 
小4-41 (全99問 めやす時間:10分)
 
小4-41のプリントは、小学校4年生の最後のプリントで
内容は、分数の約分のプリントになっている。
 
初めてやった時、なかなか最小公倍数が浮かんでこなくて、
地道に2で約分を繰り返して繰り返して‥
という感じで問題を解いていたのだけれど、
だんだんと、ぱっと最小公倍数が浮かんでぱっと問題が解ける時も
多くなってきた。
 
今日は、久しぶりにこの小4-41のプリントをやったのだけれど、
全然スムーズに解くことができず(最小公倍数がぱっとでてこない)、終わった後に今日はいつもよりも遅かったな…という気持ちになった。のだけれど、
 
時間があったので、過去の小4-41の記録を振り返ってみたら、なんと今日の記録が一番今まででタイムがよかった。
 
【これまでの小4-41の記録】
 
4/9 12:28 ミス3
4/16 9:57 ミス0
4/26 9:01 ミス1
4/27 9:10 ミス3
5/1 8:26 ミス1
5/29 7:15 ミス1
 
初めてやった時に比べる5分以上も解くスピードが速くなっているのがわかる。
 
でも、今の僕にとってはまだまだ「できない」という実感がこのプリントに対してあるわけで、このプリントの中でもっと自分の能力を発揮できるし磨けると思っている。
 
初めてやった時は、10:00以内にできれば、
かなりスムーズに気持ち良く解けるんだろうな。とか、
10:00以内に解けることができれば、満足できるだろう。なんて思っていたのだけれど、
全然そんな気持ちにはなれていない今があって、
むしろ、初めてやった時よりも「できない」という自覚が強くなっているように思う。
 
自分はいつも変化しているからこそ、できるとか、できないとかいう実感もいつも変わってくるんだ。
 
今の自分で、「あそこ」までいくことなんてできず、「あそこ」までいく過程の中で自分自身が変化しているし、変化してしまう。
 
***
 
なぜ結果的には「できる」ようになっているのにもかかわらず、「できない」実感が強まっているのか?
きっと、僕をプリントに向き合わせている原動力は、
「学びたい」「向上したい」という気持ちなのだと思う。
 
だから、いくら早くできても自分の中で「満足感」や「完璧感」はいつまでもこないのかもしれない。
その時は、この1枚のプリントから「学ぶ」「気づく」ことをやめた時だと言えるのかもしれない。
 
自分の「学びたい」という気持ちは、
1枚のプリントを完結させることは決してなくて、
いつもいつも「先」を用意してくれている。
 
だから、「できる」ようになっていながらも、
「できない」実感が強まっているのだと思う。
 
** ** **
 
何かを学び続けるというのは、
いつも「過程」で「途中」な状態なのかもしれない。
 
現実に現れる「事実」は「できる」ことが多くなるのかもしれないけれど、もしそこから「学び」「気づき」たいと思っているのなら、
自分には「できた」という実感よりも、
「できない」という実感の方が強くなっていく。
 
そう思うと、学び続けるということは、
いつも「できない」自分を認識できている状態だとおもうし、
その自分を受け入れて、見つめていくことだと言える。
 
その時に、「できない」実感はあるけど「できるようになっている」事実を、
いつも記録して、自分の変化をたどれる環境づくりは、
「できない実感」を受け入れながら学び続けるために、
とっても大事なことなのだとおもう。
 
そういう意味で、今回のこの気づきも
らくだの事実を記録するツールである記録表は、
とってもいいサポートをしてくれていると感じた。