そのまんまたろうのブログ

そのまんまこそ本物だ。自分のそのまんまを、受け入れ、認め、ゆるし、愛しています。

Sonomamma Taro no Blog

そのまんまがあるだけ。そのまんまを、受け入れ、認め、ゆるし、愛しています。

まなゆい 5周年記念合宿終わりました!

f:id:taroshio:20170523222832j:plain

 

まなゆい5周年記念合宿@伊豆高

無事開催することができました(^ ^)

 

現在は、インストラクターとしてまなゆいに関わるだけでなく、

事務局の仕事もさせていただいています。

 

ですので今回は、事務局としてイベントに関わらせていただく面もあり、

イベントに向けて様々な準備を進めてきました。

 

その過程の中で、「まなゆい」で出会った人と、

その深いつながりの中で働けることの心地よさを感じながら

この合宿の終わりを迎えることができました。

 

インストラクターのみんなと比べて、

特に僕は年齢的にも若く、

さまざまな面で経験的に浅いと思うけれど、

かなり「自分のまま」(特に小さくなったり、遠慮したりすることなく)働けていると思います。

 

これは、僕が元々自分に自信がある人間だからとかではなく、

まわりにいるインストラクターの仲間のみんなとの

関係性がそうしてくれているのだと思います。

 

まわりのみんなが「受け入れ、認め、ゆるし、愛している」というあり方でいてくれていること、

 

そして、お互いがそのあり方をいつも分かち合えているからだと思います。

 

そして、そんな関係性の中にいると

新しい自分に出会うことが多いように思います。

 

1つのチームの中で働いてみると、

頼まれることや、役割を分担することなど、

誰かから何かをお願いされたり、

誰かとの関係性の中で、自分の仕事が生まれてくるときがあります。

 

そうすると、必ず他者から見た自分に対しての「仕事」が生まれます。

これは、きっと自分の見えていない「自分」の姿だと思うし、

それを実際にやってみると意外にも人に喜ばれたり、

自分でもやっていて得意だなと思えることが生まれてきたりします。

 

そう思うと、集団の中に身を置くこと、

さまざまな人とのつながりの中で何かをしていくことって、

自分を広げていく上でとっても大切なことだと思いました。

 

今後も、たくさんのつながりが増えていくと思います。

そして、みんなで進めていくことがたくさんあります。

 

その進めていく「何か」ももちろん大事だと思うけれど、

その「何か」ができるまでの「過程」の中で出会える自分、

そして、出会える相手の魅力や優しさに触れることを

味わいながら、感じながらこの先も仕事をしていきたいと思っています。

「受け入れ認めゆるし愛しています」で生まれる関係性は、

きっとみんなにとって、新しい自分・相手に出会える素晴らしい言葉だと思います。

 

そんな言葉で繋がれている関係性をいつまでも大切にしたいと思っています。

 

イベントに参加された皆様、

インストラクターの皆様、お疲れ様でした!

量の中に質が現れてくる。

量の中に質が現れてくる。
 
小5-5(問題数:90問)
 
昨日同じプリントをやって、
10:04かかったプリントが、
今日は8:30でできた。
 
1日にして約1:30も解くスピードがはやくなった。
(ミスの数も昨日と同じ2問だった。)
 
***
 
この体験から、「質より量」とか「量より質」という言葉を思い出した。
 
 
この言葉にあるように、
 「量」と「質」というものが
相対するような認識を持っていたのだけれど、
量と質というのは、相対するものではなく、
 
「質」というものは
「量」の中に見えてくるもののように感じた。
 
この計算プリントの中で言える「質」というのは、
「1問1問の問題をミスがなく、はやく解くこと」と言えるとおもう。
 
その質をはかるためにはどうすればいいのか?と考えた時に、
「量」をこなすしかない。
 
1問の質を、1問ではかることはできなくて、
この計算プリントも、
1門の質が、90問という「量」が積み重なって、
浮き彫りになってくる。
 
だから、「質」の前に、「量」が先にある。
「量」をこなす中で、
自分の「質」が見えてくるのだとおもう。
 
***
 
どんなことでも一緒で、
「量」をこなさなければ
「質」を上げることはできないのかもしれない。
 
「量」をこなさなければ、
「質」を上げるための
ヒントも得ることができない。
 
だから何事もとにかくやってみること、
反復して続けてみることが大切なのかもしれない。
 
そうすると、自分の質が積み重なって、
わかりやすい形として現れてくる。
 
そうして、「量」から見えてきた現実を
試行錯誤していくことで、「質」は磨かれていくように思いました。
 

お肉屋さんのおばあちゃんに質問

質問することで、日常は楽しくなる。

 
毎朝買い出しにいくお肉屋さんのおばあちゃん
 
結構歳がいっているおばあちゃんだけれど、
毎朝お肉を切って、僕たちに売ってくれている。
そんなおばあちゃんに
「おばちゃんはどこからきているの?」と聞いたことから
話が始まった。
 
おばあちゃんは一時間以上かけて通勤しているという。
 
「なぜそんな遠くから来ているのか?」
そう聞いたところ、おばあちゃんは以前、屠殺所で働いていたという。
だけれど、そこがなくなってしまったため、今の職場に異動になったようだ。
 
屠殺所で何十年も働いていたようで、いろんな話をしてくれた。
 
毎年多くの若い人が就職してくる。
だけれどほとんどが1〜3日で辞めていくという。
多くの人が嘔吐してしまったりするようだ。
 
豚・鳥・ヤギなどいろいろな動物がいたようで、
豚は基本的に約3ヶ月間かけて育てるようだが、
夏の豚は、人間と同じように暑さで餌を食べなくなる。
だから大きくなるスピードも遅いため6ヶ月かかるようだ。
 
そんなお話をしてくれた。
 
時間も少なかったので、ここからもっと質問したかったけど、
ここで会話終わってしまったけれど、
普段聞いたことのない、話を聞けた。
 
そして、毎朝黙々とお肉を切りながら、
何気ない言葉をかけてくれるおばあちゃんの人生の中に、
こんな体験があったとは。
 
人の人生それぞれいろんな体験があって、
その話を聞けることがとても貴重な時間だった。
 
 
***
 
車屋の店長さんとのお話
 
車が故障し、買い換えることになり、
車屋に行くことになった。
 
そこでの店長さんとのお話。
 
創業15年。
社長が買い付けに行くのだけれど、
かなりマニアックな車を買い付けてくるそうだ。
それを販売しなければならない店長さんの表情がなんとも印象深い。
 
マニアックなお客さんには車の説明などしない、
近くにいたら邪魔してしまって、
反対に車をみてもらえない。
 
マニアックな車は、全国にいるファンがいつか必ず買ってくれるから、仕入れればいつかは必ず売れるそうだ。
 
車屋には150台もの中古車が置いてあるという。
その中古車を、売れる時は一ヶ月に30〜40台さばくという。
 
昔は雑誌をみての来客がほとんどだったけれど、
今はほぼインターネットに変わっているようだ。
 
質問すれば様々なことを話してくれる。
自分も全く知らない業界の話だから、
聞いていてかなり面白かった。
 
****
 
質問することで、何気ない日常も全く違った世界になる。
相手から見えてないものが見えてきた時、
相手が見せていないものを見せてくれた時、
相手との距離がすこしずつ近づいて、
あったかい気持ちになる。
 
質問することで、見えていない世界を相手が開いてくれる。
 
どんなに何気ない日常の中にも、
そこには触れ合う人がいて、
その人たちにすこしだけ質問をしてみると、
見えていない、楽しい世界が開かれていく。
 
そして、そんな人と近づいている、分かち合っている時間は
とってもあたたかい気持ちになると思います。
 
そんな気持ちも、「問いかける」ということから全ては始まっている♩
 

挑戦・チャレンジ

何を挑戦というのか?

 
小4 39~41
 
時間内には確実にできるようになったのだけど、
足し算や引き算の時みたいに、
頭より先に身体が解いてくれるような、
そんな感覚で問題が解けるようになりたい。
 
そう思って、何度もこのプリントを繰り返しやっているのだけれど、
そろそろ限界というか、何かを変えなければいけないな。という気がしていた。
 
どうしたら身体に染み込んでいくのか?と考えたとき、
それは「速さ」を意識することで鍛えられるような気がした。
 
そう思って、今までの記録表を見返してみると、
僕は今までの計算プリントで、ミスが4つ以上あったプリントはほとんどない。
 
今までそのことに関して、何も問題はないと思っていたし、
むしろ一問一問を丁寧に解けているから、いい事だと思っていた。
 
だけど、「なぜミスが4つ以上がないのか?」という問いに向き合ってみると、
 
「ミスをしてはいけない」という意識がいつも解いているときにあるし、
ミスが少ない方がいいことで、丁寧にできている証拠だ思っている自分がいる。
 
もちろんそうとも言えるかもしれないけど、
そういう自分の意識があるからこそ、鍛えられない、
磨かれない部分があるということを忘れてはいけない。
 
今の僕にとって、大切なことは「ミスを少なく丁寧に解く」ということよりも、
むしろその意識を手放していくことなのかもしれない。
 
もしかしたら「ミスをしない」という意識が、
体へしみ込んでいくことのブレーキになっているのかもしれない。
 
ミスをしてもいいから、「速さ」を意識して解いてみる。
問題を見たときに、考えずにぱっと浮かんだ数字を
どんどんプリントに書いて進んで行く。そんな姿勢で問題に取り組んでみたい。
 
きっとそんな解き方をしたら、
ミスは確実に増えていくし、また新たなできない体験が現れてくる。
 
でも、できるようになりたいから、やれるのだと思う。
こういうことが「挑戦」とか「チャレンジ」と言うのかもしれない。
 
今の自分を知らずして、
挑戦もチャレンジもできないし、
 
挑戦すること、チャレンジすることは
いつも自分で見つけられるものだし、
自分でやるかやらないかも決められるものだとも言えると思う。
 
***
 
やることはいつもと変わらない1枚のプリントであるし、
挑戦といっても、外から見れば
ほんの些細なことなのかもしれない。
 
でも、自分にとっては挑戦で、
自分で見つけた、自分で決めた挑戦であって、
結構大きな挑戦とも言える。
 
誰かの挑戦も、きっとこういうものなのだと思う。
 
僕からは見えにくいし、
外に現れるものは、ほんの小さな小さなことなのかもしれないけれど、
目の前の人は、自分で見つけて
自分で決めたチャレンジをしていることがある。
 
それは、小さそうで意外にもその人にとっては
大きな挑戦なんだよなと思いました。

「問い」を持ちながらも、「問い」をかかえすぎないこと。

f:id:taroshio:20170503005818j:plain

 

問いは持っておくだけでいい。

問いに対して答えを見つけようとするんじゃない。

 

昨日は中村教室に久しぶりに行って思ったことです。

 

昨日投稿した「納得感はどこから来るのだろうか?」という問いは、

おそらく2〜3週間くらい前から考えていたことで、

なかなかうまく言葉に落とせていないでいました。

 

でも、昨日久しぶりに中村教室に行ったことで、

なんとなく昨日の記事が書けました。

 

***

 

自分の中で問いが生まれた時、

その問いを一生懸命考えようとする。

 

でも、自分の枠の中で考えていたって、

答えはいつも自分の枠の中に収まり、

自分を越えていかない。

 

だから、問いの答えを見つけよう。見つけよう。と思っても、

一向に答えは見つからず、

問いから抜け出せない。

 

***

 

昨日は中村教室で、僕は計算プリントをやったり、

読書をしているのだけれど、

僕の周りでも、いろいろな対話が起こっています。

 

そんなとき、ふと誰かが言った言葉や、

誰かと誰かの対話の内容が、

僕の「問い」に引っかかってくるわけです。

 

僕は全く「問い」に対して考えようとしていないのだけれど、

自然と「問い」に引っかかって、

「問い」が僕の中にあらためて浮かび上がってくる。

 

「問い」を持っておくだけで、

ふとした時に、感じたこと、

ふと聞こえてきた言葉や、

話の内容がその問いへ繋がってくる。

 

そのふとした感覚や、言葉は

自分が意識的に「問い」に対して

結びつけたものではなくて、

無意識的に、なぜか問いへと繋がったものである。

 

それは、自分の枠を超えたもの、

自分の枠から出たものと言えるかもしれない。

 

「問い」を持ちながらも、

「問い」をかかえすぎないこと。

 

「問い」は持っていさえすればいい。

きっと、その「問い」に何かが引っかかって、

自然と自分の前に「問い」再びが現れてくる。

 

そんなときこそ、問いを深めるチャンスだ!

 

 

納得感はどこからくるのか

納得感はどこからくるのか?

 
小4-39
 
プリントの目安に達していれば、
次に進むという選択肢が生まれてくる。
 それを自分で「決める」ことができる。
 
ただ、目安の時間でできていたとしても、
自分の中で「納得感」が生まれない。
なかなか次に進もうという気持ちが起きないでいる。
 
なぜ納得できないのだろう?
この納得感はどこからやってくるのだろう?
 
目安の時間でできていても、
自分としては「まだできる」と思っている。
もっとスムーズに、流れるように問題が解ける。
そんな自分がいるということが、自分ではわかっている。
 
でも、そんな自分になれるにはまだまだ時間と量が必要そうだ。
ここで次に進んで、
今のプリントを止めてしまえば、
そんな「自分」と出会えるチャンスを打ち切ることになる。
 
そんな気持ちなのかもしれない。
 
今、できなくても「できる」自分を知っている。
その「できる自分」と出会いたいわけで、
でもすぐには出会えなくて。。。
 
「納得感がうまれない」というのは、
 そんな「会いたいけど、会えない」気持ちが含まれているのかもしれない。
 
***
 
この納得感を感じられる学びこそ、
(納得感があることも、ないことも感じられる)
セルフラーニングと言えるのかもしれない。
 
自分で決めて、自分で学んでいく。
そんな学び方だからこそこの「納得感」を感じられるのだと思う。
 
それともう一つ。
 
今の自分のレベルで、
 次のプリントに進んだとしても、
きっと同じようにつまづいて、
同じ問題と向き合う時がくるだろう。という気持ちもある。
 
(目安の時間ではできているのだけれど)
今の自分は割り算もスラスラ解けないわけで。
でも、今後も割り算をする機会がなくなるわけではない。
むしろ、その割り算を土台に新たな課題にチャレンジしていくはずだ。
 
そんな自分の未来の見通しが、
 今の納得感に影響しているように思う。
 
自分が「未来」をどう見据えて、
どんな見通しをしているのかで、
自分の「今」の現状への納得感が変わってくる。
 
そして、たとえ納得感が得られなくても、
自分がどう未来を見据えているのか?
そのことがどのように今に影響してくるのか?ということが整理できれば、
「納得できない今」を心地よく、受け入れられる自分になれるように思う。
 
 
***
 
これは計算プリントに限らず、
同じことが言えるのだと思う。
 
今の自分が、どう今を捉えているのか。ということは、
必ず未来をどう捉えているのか?ということが影響している。
 
今の現状が満足できずに、
今の現状をなんとかしようと、
がむしゃらに頑張ったとしても、
 
今の自分の未来の見つめ方、
未来の見通し方に問題があれば、
いくら今の現状を変えようと頑張ったとしても、
自分の今の捉え方は変わらない。
 
自分の「今」といのは必ずしも
自分の「未来」と切り離されているものではなくて、
自分の未来は自分の「今」にかなり影響を与えている。
 
 
***
 
そう考えていくと、
 「納得できない自分」というのは決して問題ではなくて、
できる自分を信じていれば、
自分の未来を描くのなら、
 必ず生まれるものである。
 
だから納得できない自分を
無理やり納得できる自分にする必要もない。
 
ただ、その中で
「納得できない自分」に納得することはできように思う。
 
だから、自分の納得感はどこから来ているのか?という問いから、
自分が時間軸を元に、どう未来や過去を捉えているのかを整理し、
自分の今にどう影響してくるのか?という見方を磨くことで、
「納得できない自分」も納得できるのではないかと思いました。

 

必ずやってくる変化

必ずやってくる変化

 

僕が年齢を重ねていくにつれて、

小さかった時に考えなかったことを考えるようになったり、
考えられるようになった。
 
それと同じように、
どれだけ歳をとったとしても、
おじいちゃん、おばあちゃんも
昔では考えられなかったことを
考えられるようになっているのかもしれない。
 
でも、言葉がすっと出てこなかったり、
すぐ物忘れをしてしまったり、
何度も同じ話をしたり。
体の機能が低下し、動けなくなったり、
 
そういう姿をみると、
もうボケが始まった。とか、
衰えて、全ての機能が低下する。という風に思ってしまいがちだけれど、
どれだけ歳をとったとしても、
「こころ」は、「考えること」だけは、
 衰えず進み続けているのかもしれない。
 
僕たちから見えるおじいちゃん、おばあちゃんの姿は、
もしかしたら、「ぼけている」ように見えるのかもしれないけど、
外には表現されない言葉が、
おじいちゃん、おばあちゃんの中にはあるのかもしれない。
 
僕の年齢では、まだ考えたことや、思い浮かべたことを、
自分の外に出すこと(表現すること)がスムーズにできる方だ。
 
だからこうやって、考えたことを文字に起こしたり、
言葉として話すことができるようになってきた。
そして、それを出せることで、
すっきりしたり、自分を癒していることがあったりする。
 
でも歳をとると、思うこと、考えることはより増えていき、
 できるようになっていく一方で、
 そこの部分の自分の外へ出すこと(表現すること)の機能は衰えるのかもしれない。
 
 
おじいちゃん、おばあちゃんは
 その葛藤の中を生きているのかもしれない。
僕たちには見えない言葉が、
こころの中ではたくさんある。でも、それがなかなか外に出すことができない。
外に出ない分、自分でもすっきりしない。(それは自分を癒すことまでも、許されない状態なのかもしれない)
そしてさらに、周りの人からは「ぼけた」こととされ、
それとしての優しさだったり、気遣いをされる。
 
でも、本当におじいちゃん、おばあちゃんたちが求めていることは、
その見えない言葉のような、
いつまでも進んでいる「考える力」のような、
それをこころといってもいいのかもしれないけれど、
そういう力のような存在がまだあるということの理解なのかもしれない。
 
それは、どんなに同じことを繰り返し話したとしても、
どんなに言葉を出すことに時間がかかったとしても、
話を聞いてあげることだったり、
 
その見えない言葉のような存在を思い浮かべて、
僕たちから、おじいちゃん、おばあちゃんの言葉を、
こころを、理解しようとする姿勢が必要なのかもしれないなと思いました。
 
*** *** ***
 
時間が流れているわけだから、
僕の家族もみんな歳をとっていきます。
おじいちゃん、おばあちゃんも、
僕が小さかったときのおじいちゃん、おばあちゃんの姿から変化しているし、
僕自身も、もちろん変化しています。
 
そして、ここで言っている変化というのは、
 「考え方」とか、「価値観」の変化というよりも、
もっと大きな「衰え」とか、「老い」ということです。
 
この「変化」というのは、誰しも起こることだし、
家族という深いつながりの中で
生きているのならば、必ず直面する「変化」だと思います。
 
正直、おじいちゃんやおばあちゃんと久しぶりに会うと、
その「老い」のような変化は、
 僕の想像よりもかなり一時点を超えるとスピードが増していくし、
この先、何が起こって、どう進んで行くのか想像できない部分がたくさんあります。
 
そして、その「変化」をみんなが受け入れていくこと、
理解していくことはとっても難しいことだと思うし、
その「変化」をきっかけにいろんな問題が生まれることだってあると思います。
 
 だからこそ、僕の中でも悲しくなったり、
不安になったりすることもあるのだけれど、
 その「変化」をどう捉えて、
どうやって受け入れていくのか?ということを自分に問いかけ、
 考える続けるしかないのだと思っています。
 
** ** **
今日は、パートナーのおじいちゃん(今年90歳)と
ゆっくりお話しする機会がありました。(戦争のお話しをたくさん聞きました。)
結局、自分がおじいちゃんにならなければわからないことなんだけれど、
「沈黙も言葉」という言葉や「家族のゆくえ」、べてるの人たち、寺子屋塾で話されること、まなゆいなどで感じていることなどを思い浮かべながら、今日はこのことについて考えてみました。
 
 

 

***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***

⭐︎Facebookhttps://www.facebook.com/taro.shiosaka?fref=ts 

日々の情報はこちらで発信しています

⭐︎そのまんまぴくちゃーず:http://taroshio.tumblr.com
自然の美しさをそのまんまお伝えします!
 
⭐︎まなゆいセッション希望の方は、こちらまでご連絡ください
taro.sonomammaあっとgmail.com
 
***  ***  ***  ***  ***  ***  ***  ***