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事実を浮かび上がらせるための「めやす」

事実を浮かび上がらせるための「めやす」

 
らくだメソッドでは、
「めやすの時間内にできること&ミス3問以内」という「めやす」が設けられています。
この「めやす」があることで、当たり前だけれど「できる」「できない」という事実が生まれてきます。
 
この2つの「めやす」は「わかるーわからない」ではなく、
「できるーできない」という基準となっています。
 
この「できるーできない」という視点からのめやすが、
より事実を詳細に、明確に浮かび上がらせてくれていると思います。
 
たとえば、
「めやすの時間内にできたけれど、ミスが3問以上の時」
この事実からみえてくる自分は、計算の正確性に欠ける自分ともいえるし、
 
「ミスはなかったけれど、めやすの時間内にできなかった時」
この事実から見えてくる自分は、
問題は解けるのだけれど、まだ頭で考えていて、
リズミカルにすらすらできない自分ともいえる。
 
このように、「できるーできない」という明確な基準があることで、
より今の自分の「事実」が浮かび上がってくるのだと思いました。
 
だからこそ、今の自分がより明確に自覚できるし、
その自分がたとえ「できない自分」であったとしても、
今のその確かな「できない現状」を把握できていれば、
人は自然と「できる」方向へ進み「たい」と思うと思います。
 
らくだメソッドではなぜできないことと向き合えるのか?
 
それはらくだメソッドの中での、
「めやす」から生まれる「できない」という体験は、
明確な「事実」を浮かび上がらせてくれます。
その事実というものが、より詳細で、明確なんだと思います。
 
だから、らくだの学習では「できないこと」と向き合えるのだと思います。
 
そして、「できないことと向き合う」という状態は、
できないことが悪いこと、できることがいいことという認識ではなく、
ただ、「自分の現状を把握している状態」
「今の自分をより掴んでいる状態」に過ぎないのだと思いました。
 
そんな状態だから、
できないことと向き合うことは辛く、苦しいわけでもなく、
何かを糧に頑張ろうと努力するわけでもなく、
ただ自然とできる方向へ向かっていけるのだと感じています。
 
** ** **
 
井上さんが補足コメントと、関連記事のご紹介とあわせてこちらにシェアしてくださいました。
 
「わかる→できる」
「できる→わかる」というアプローチの違いに関して、
とっても整理できたように思っています。
 
 
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「明確なできない状況」と出会う

なぜこのらくだメソッドだと、
「できない」ということに出会い、
その「できない」という自覚が生まれるのか?ということが
とっても不思議だなと思っています。
 
今までの経験でも、
「できない」ということには、たくさん出会ってきたわけだけど、
その「できない」ということからなぜか目を背けたくなったり、
できるふりをしてきました。
 
そして、「できない」ということが原動力になったとしても、
そこには必ず自分以外の誰かの存在があり、
 
あいつには負けないように、、、とか、
誰かに褒めてもらったり、
あるいは怒られないように、、、など、
 
 そんな形でしか「できない」を原動力にできずにいました。
 
 
だけど、 この1日1枚の計算プリントで、
 「できない」ということに出会えること、
そして、その体験からの気づきや発見を通して、
「できない」ということとの向き合い方が少しずつ変わってきたように思います。
 
でもなぜ、このプリントだと、
「できない」ということに出会い、
その「できない」という自覚が生まれ、
「できない」と向き合うことができるのか?
 
という問いがいつも生まれてきます。
 
 
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学校の勉強で「できない」ということに直面したことは、幾度となくありました。
 
そんな「わからない=できない」体験を振り返ってみると、
さまざまな「わからない」という状況があるように思います。
 
たとえば、ある問題が解けず、
なにが「わからないか?」と聞かれた時に、
自分が「わからない」と思っていることも、
そのことを理解するために、
分かっていないといけないことが、
 「わかっていない」ことだってあるし、
 
自分では、どこが分からないのか「わからない」ということだってあります。
そんな時、まわりの先生だって、親だって、本人がどこでつまづいているのかがわからない。。。。
 
「わからない」という体験を振り返ってみると、
「わからない」状況がかなり曖昧な状況にあったように思います。
一体自分はどこで、何につまづいているのか、、、と。
 
「できない」体験って、意外と曖昧だったのかも!と思います。。。
 
 
この点から考えてみると、
 らくだメソッドでは、
 自分がどこでつまづいているのか?
どこに自分がいるのか?
 
目の前の学習者が、どこでつまづいているのか、
どこから分かっていないのか?
 
ということがとてもわかりやすくできているのです。
プリントを通して出会う「できない」という状況は、
かなり「明確なできない状況」のように思います。
 
「できない」が明確であるからこそ、
「できる」ことも明確になってくるのだと思います。
 
*** *** ***
 
明確な「できない」状況を作るために。
 
この明確な「できない」という状況はどのようにしたら作ることができるのか?
 
このプリントを初めてやったとき、
かなりスモールステップで、ゆっくり進んでいくなと思いました。
1枚のプリントの中で、おさえなければいけないポイントは
ほぼ1つにまとめられていると思います。
 
初めてやったときにそのような実感があったのだけれど、
この実感こそ、明確に「できない」状況を作ってくれているのだと思います。
 
それは、このプリントが、
1つの領域を(たとえば約分とか)を徹底的に分解して、
1つ1つの要素を、丁寧に順序よくまとめてあるからだと思います。
 
そして、学習者がどんな状況にあり、どんなところでつまづくのか?
ということをみっちり考えられて作られていると思います。…ヒントの出し方が絶妙だったりします。
(平井さんは息子さんのためにこの教材を作られたというエピソードがありますが、
まさに学習者が我が息子であったからこそ、ここまで考えられたのでは!と思っています。)
 
その点から考えても、
 明確な「できない」状況を作るためには、
物事をあらゆる角度から見つめ、考えること。
物事を分解するということは、
身のまわりに起きている、「小さなこと」を大切にしていくということにも繋がるように思います。
 
明確な「できない」状況に出会えることができれば、
「できない」という自覚が芽生え、
明確な「できる」自分と出会える。
 
だからこそ、明確な「できない」状況はどのようにして生まれるのか、
ということを問い続けたいと思いました。
 
 

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「*なるべく1度で約分しなさい」

「*なるべく1度で約分しなさい」

 
小4-36
 
小4-36は、もうすでに2回やっていて、
2回とも目安の時間内に解けていました。
 
けれど、自分の中でズルしているわけではないのだけれど、
時間内に「できる」ことを意識しすぎて、
問題の中にある一つの言葉を、素直に聞いていないなという自分に
違和感を感じ、今日はその言葉を忠実にきいてもう一度やってみました。
 
その言葉というのは、
 
「*なるべく1度で約分しなさい」 という言葉です。
 
 
約分自体はできるのですが、
「約分がどうできるか?」ということを、
 このメッセージは僕に伝えてくれていたのだと思います。
 
たとえば、12/32。
 
1度で約分しなければ、まずは「2」で割って
6/16 … 3/8 と解いていけばよくて、
それなら時間内に「できる」のです。
 
でも、「*なるべく1度で約分しなさい」 という言葉の通りにやると、
最大公約数の「4」を瞬時に見つけることがまだ「できない」わけです。
 
そんなわけで、今日は以前合格できたプリントが不合格になりました。
(目安の時間内に終わりませんでした)
 
「できた」プリントが、自分の意識を変えたら「できない」プリントになるわけだから、
普段の自分は、「できない」よりも、
「できる」方向へ自然と流れてしまっていることがあるように思います。
 
でも、この段階で一度で最大位公約数を見つけることが「できる」ようになることが、
この先のプリントの課題を1つずつクリアしていくためには絶対に必要になることだと思いますし、
いつか必ず「*なるべく1度で約分しなさい」 という言葉をなかったことにし、
 「できる」ことを優先させたことで壁にぶつかる時がくるのだと思います。
 
 
自分をみつめるというのは、改めて難しいことだと思います。
いつも自然と「できる」方向へ流れてしまう。
自分が気づかぬうちに。
 
それがいいことで、順調なことのように思ってしまいます。
でも本当は、その「できる」ことが、
 自分を見えなくしていることがあるのです。
 
「できない」体験から、自分に気づいていくことは、
とっても楽しいことです。
新しい自分に気づけるわけだから。
 
それは「できた」経験からは得られない「新しい自分」であり、
自分の中にいた、けど気づいていなかった「新しい自分」です。
 
その自分に気づけるのは「できない」という体験からだと思います。
 
日常の中をよ〜くみれば、きっと「できない自分」に
たくさん出会えると思うけれど、
自然と「できる」方向へ流れてしまっているのだと思います。
 
なので、まずは1枚のプリントを通して「できない体験」を大切にする。
 
その体験の中で「できない」ことを通して見えてくることへの実感、
そして、その楽しさを感じ、日常の「実はできてない」体験に少しでも目をむけて、
今の自分の中にいる、「新しい自分」「気づいていない自分」を感じていきたいと思っています。
 
 
 
 
 

家族のゆくえ

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 階層や階級の動かしようもなく見える状態も、家族の崩壊につながる家庭内犯罪の凶悪化も米欧先進社会の状態を後追いしている状態も、すでに露出し始めている。

これは希望でもあり絶望でもある必然と考えてよい。

 私が自分の貧弱な思弁と体験的な実感と、現在まで持続してきた思想的な営為とを挙げて率直に言えることは、「人間力」(人間が理想の可能性を追求する力)と「想像力」を個々人がもつことだと考え、そう述べてきた。

 米欧並みのこの負の先進性を極限まで後追いすることを可避するためには、この負の先進性を自己慰安的な意味で自意識化するほかならないからだ。社会や政治権力の文化史と文明史に基づく先進性が必要だとするなら、自己意識の底まで届く内省のほかにないとおもえる。いいかえれば、自意識的に自分たちの構想力を付け加えるべき時に至っているとおもえる。

「構想力」「理想力」、あるいは勝手な言葉を使えば「人間力」、それをもって歴史の傍流をつくり出すほかない。わたしにはいまそういう思いが蔽いがたくやってくる。

 

 

過去と未来について

「過去について考えることは、未来について考えることと同じである」

 

寺子屋塾でお世話になっている、
井上さんのFBで目に止まったこの言葉、
 
正直意味がよくわからなかったのだけれど、
この一週間でこの言葉に少しだけ近づけたような気がする。
 
僕が今この瞬間に後悔すること、
何かをしておけばよかった、、、
なんでこうなってしまったのだろう、、、
 
そうして「過去」を考えていることは、
ただ「過去」を考えているだけだと思っていた。
 
でも、その「過去」を後悔したりしながら、
「未来」も同時に存在しているときがある。
 
過去を後悔しながら、
「次は絶対〜してやる、、、」とか、
「このままいったらやばい、、、」とか、
 
かならずそこには「未来」がある。
 
「過去」と「未来」、完全にこの二つを分けて考えていて、
この二つが合わさることなんて考えたことがなかった。
 
だって、言葉として「過去」「未来」って分けられているから。
 
でも、実際は過去も未来もこの瞬間の中にある。
あるのは本当に、この今、この瞬間だけなんだ!
 
 

「問題をすぐに解決しないこと」

僕の目の前に起こる問題に対して、

「問題だ。解決しなければ。」と焦らないこと。

 

それを「問題」としているのは自分自身であって、

なにを根拠に「問題だ」と思っているのか、よく自分を見つめてみることだ。

 

そして一つずつ、一つずつ、自分に質問してあげる。

 

そうすると、自身の囚われとか、

自分の固定観念みたいなものが絶対あるのだ。

 

問題を解決することを焦らずに、

今、目の前に起こっている物事を冷静に受け入れて、見つめてみることだ。

 

それが本当は問題でないことだってたくさんある。

 

自分にとって大切な人や、身近な人との関係の中で起きる問題こそ、

どうしても冷静になって見つめることは難しいけど、

「問題をすぐに解決しないこと」という言葉を大事にしたいと思った。

 

 

 

 

自分をデザインする。

アートディレクター佐藤可士和さんの

「課外授業 ようこそ先輩」と「プロフェッショナル 仕事の流儀」をみました。
 
「デザインする」ということは、一体どういうことなのか?ということを考えるきっかけになりました。
 
自分らしく生きること、
 
ありのままで生きることは、
 
自分で自分の人生を作っていくこと、
 
それらの言葉は「自分をデザインする」と言い換えることができるように思います。
 
「デザインする」とはどういうことなのか?
 
この問いを深めていくことは、
 
「自分らしく生きるとは?」
「自分らしい人生とは?」
「自分で自分の人生を作っていくとはどういうことなのか?」という問いにもつながっていくように思います。
 
ですので、「デザイン」のプロフェッショナル、
佐藤可士和さんの「デザイン」に対する考え方は、
そんな問いに対してかなり参考になるお話だったように思います。

 

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目に見えないコンセプトを形にするのはとっても難しいと思うんですが、何か秘密はあるんですか?

 

こんな問いに関して、こんな風に答えていました。

何かいいアイディアがぱっと浮かぶことなんて全然ないんです。
 
「対象物の中に答えがある」
 
それがわかってから、アイディアが出なくなる恐怖感がなくなりました。
必ずアイディアはでる。
 
 
佐藤可士和さんの師匠、コピーライター鈴木聡さんの言葉
広告は演出するこではなく、むしろ本質に向いていくこと。
 
洋服を着せることではなくて、裸にしていく。
その時にたったひとつ残ったことが、そのコンセプト。

 

デザインというのは、対象に対して肉付けするものではなくて、
 むしろそぎ落としていくことなのだということです。
 
カッコ良くしたり、オシャレにしたり、華やかにみせたり、可愛くしたり、
そのように、対象を大きく見せるものではなくて、
 
その対象の中にある、
本質的なものを見つけていく作業なのだと思います。
 
 
佐藤可士和さんの人生のターニングポイントとなったステップワゴンCM
 
そのCM製作の過程では、
 
商品とそれを取り巻く時代について、
なぜRVがうけるのか?
家族の車ってなんなのか?
今家族はどうなっているのか?
 
そんなことを永遠と語り合ったそうです。
 
この「ステップワゴンをデザインすること」と、
「自分をデザインすること」は、ほぼ同じことのように感じます 。
 
「デザインする」ためには、
「問い」と「他者(いろんな視点)」が必要なのだと思います。
 
 
「他者」との関わりのなかで、
いろいろな角度から自分が問われていくことによって、
自分にとってより大切な何かが見えてくるのだと思います。
その過程こそが、「自分をデザインしていく」
 「自分がデザインされていく」と言えるのかもしれません。
 
あらゆる他者との関わりの中に身を置き、
自分から、そして他者から「問い」をぶつけられるほど、
「自分をデザイン」できるのだと思います。
 
そう考えると、
「 自分らしく生きていくこと」を仮に、
「自分の人生を自分でデザインしていくということ」とするのなら、
それは、 いつも問いの中に生きている状態と言えるのかもしれません。
 
完成された「自分」に自分をはめ込むわけでもなく、
自分を大きくみせたりするわけでもなく、
 
いつも模索し、自分という存在が問われていること、
それが「自分をデザインする」ことであり、
「自分らしく生きること」なのだと思いました。
 
「対話すること」や「問い」が、
自分らしく生きていくこと、
自分の人生をデザインしていく上で大切である理由が、
すこし深まったように思いました。
 
 
プロフェッショナル 仕事の流儀 「アートディレクター 佐藤可士和の仕事」