そのまんまたろうのブログ

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自分への対策

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自分への対策

 

自分以外の何かに「対策」をすることはたくさんしてきました。

あらゆることを予測して、

対策することをしてきたけれど、

「自分」に対しての対策をしてきませんでした。

 

それは、「自分」という存在がいつも固定化されたものだと

思っていたからなのかもと思います。

 

らくだの計算プリントを1日1枚やると、

スムーズに取りかかれるとき、

とりかかれないとき、

 

計算ミスがないとき、

たくさんミスするとき、

 

目安の時間を気にならないとき、

時間が気になって焦るとき、

 

毎日毎日プリントを通して現れてくる自分は違って、

「自分」がどれだけ毎日変化して、

生きているのかということが感じられます。

 

プリントが終わったら、

その日の記録を記録表に記入して、

ちょっとした気づきや気分のメモを残す。

 

1日1日の「自分」のデータをためていくと、

なんかここ最近調子が上がってきたぞ、とか

なんかここ最近調子がすぐれない、とか

うまく生きそうにないな〜なんて予測と、

こういうパターンのときは自分調子悪いなとか、

そういう予測がだんだんと生まれてきます。

 

そしてうまくいかなそうなときは、

何かしら自分に対する「対策」が生まれます。

(うまく行っているときは、うまくいかないことの始まりなんだけど、うまく行っているときほど対策できない気がします。。)

 

僕にとっては、

例えば意識して家事の時間を積極的にとったり、

家の掃除をあえて入れることだったり、

とっても小さな小さなことなんだけど、

そういうちょっとした「自分」への対策が、

毎日を過ごしやすくしてくれるように思います。

 

「自分」をどう捉えて、どう予測して、

どのように自分への「対策」をしていくか?

 

何か自分の外のものに対して、

「対策」を考え実行する前に、

まず「自分」を知ることから始めることも大切だなと思います。

 

 

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知のとびら 「女子学生、渡辺京二に会いに行く」

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この本、とってもよかったです。

何箇所もチェックしてしましましたが、

 

最後の最後の「無名に埋没せよ」という章内の

「知のとびら」の一節です。

 

女子大生へ「しかし、最後に申し上げたいのは…」という渡辺さんの言葉から始まる一節なのですが、とっても心に残りました。

 

吉本さんの「ひとり」は、中学生との対話形式であり、

本書は女子学生(大学院生もいました)との対話形式ということで、

ひとつひとつのメッセージがとっても心にしみました。

 

一生学問をやっていかれるとは限らないと思う。でもここでの知の世界、思想の世界、人類全体の問題というふうなことに出会われたのです。専門的にそういう学問をやっていかないとしても、仮に平凡な妻、母親になるとしても、一生本を読んでいきなさい。本を読むということは持続です。書くこともそうですが、持続です。

 私はさっき言ったように、10歳くらいのみぎりからずっと絶え間なく書いてきたように思うんですが、これも持続です。学問も持続です。だからずうっと本を読んでいきなさい。

 私は平凡な社会人になったらもう学問とは縁がない、とは思わないことです。普通の平凡な社会人でもちゃんとした読書人にはなれます。一生本を読み続けることが大事です。そして何かこういうことがやりたいな、研究したいなってことがあったら一冊の本を書きなさい。書いてもいいんです。そのためにはあるテーマに関する文献、研究書を読み上げなきゃいけないでしょう。自分自身の見方というのが必要でしょう。でも私のような大学の教員になったことが一度もないような人間、民間でずうっとあくせくして、綱渡りのようにして飯食った人間にもできることです、やる気さえあれば。

 学者や研究者になるとか、あるいは変な意味での自己実現をするということじゃなしに、一生何かを模索していく。人間とはなんなのか、どうあればいいのか、社会というのはどうあればいいのか、一生模索していって、本を読んでいってテーマをつかんだら本を書くといい。

論語」に出てくる話だけど、孔子のかつてのお弟子が孔子に言いました。私なりに脚色していうと、

「私は先生のことはずっと尊敬しております。先生に習って、また若い頃考えたこと、習ったことは心の中で大事なこととして思っております」と。

 こう言われたら、ほう、感心じゃ、と言うのが普通でしょう。でも孔子は、「汝中道にして廃せり」と言ったんですよ。おまえは道を求めることを途中でやめたと、突っ放したんです。実に厳しいですが、孔子というのは正しいと思います。孔子さんは偉大なる教育者だね。

 

女子学生、渡辺京二に会いに行く (知のとびら)

 

女子学生、渡辺京二に会いに行く (文春文庫) | 渡辺 京二, 津田塾大学三砂ちづるゼミ |本 | 通販 | Amazon

 

「わからない」を共有できれば

「わからない」から、

次もまたやろうと思う。

 

次もまたみんなと学ぼうと思う。

 

次もまたチャレンジしてみようと思う。

 

次もまたこの人から学びたいと思う。

 

「わかった」と思った時に、

次は無くなってしまう。

「わからない」「できない」から継続されるものもある。

それは、人間関係だってそうなのかもしれない。

 

「わからない」を共有できていれば、

 

きっとずっと一生つながっている。

 

そんな人たちと過ごす時間は僕にとって大切な時間。

 

自己実現よりも、自己探求。

自己探求は、きっと多くの人との大切なつながりをもたらしてくれると思う。

V.O.Pが「予告編」である理由。

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べてるの家ドキュメンタリー映画「ベリー・オーディナリー・ピープル」は「予告編」が1〜8まであります。

「予告編」なので、とっても短い映画を想像してしまうのですが、

実際は、予告編1が60分、予告編2は90分!という長さの「予告編」なのです。

 ギネスブックに載ってもいいほど長い!「予告編」なのですが、

 なぜ「予告編」なのか?という問いを持った人もいると思いますので、

V.O.Pの監督である、四宮鉄男さんのブログ記事から、抜粋しました。

 

この「予告編」である理由も、「べてる」を感じられると思います♩

 

 

最初の清水さんの注文は十五分から二十分の予告篇だった。しかし、実際に編集をし始めるといっこうに短くならない。それよりも、そもそも短くする気が失せてしまうのだった。精神障碍でも、生活保護でも、それでも子ども生みたい! という山崎薫ちゃんの言葉をそのまま伝えたかった.。今は精神病であることを誇りに思っている! という坂本さんの破天荒な言葉もそのまま伝えたかった。すると、どうがんばったところで短い予告篇などはできっこなかった。長くてもいいですか、と清水さんに尋ねると、それでいいと言う。そこで60分の予告篇その1が誕生した。

•・・

本編という一本の作品を作ろうとすると、どうしても完結性が求められてくる。作る側も見る側も完結性を求めてしまう。 感動がほしくなり、結論がほしくなり、意味づけがほしくなり、素晴らしさがほしくなり、立派さがほしくなる。 しかし、毎日毎日をただひたすらに生きていることには限りがない。

生きることは、完結しない。生きることは死ぬまで続く。瞬間瞬間を輝いて生きているメンバーたちの姿を映像として定着していくのには、完結性が邪魔になったのである。生きることは、毎日毎日変わっていく。べてるもどんどん変わっていく。だから“べてるはこうです”とは、いつだって言い切れない。だからいつまでも予告篇なのだった。

(愚鉄パラダイスより 引用)

 

 

4月22日にV.O.P上映会を予定しています。

「べてるの家」 ドキュメンタリー映画「ベリー・オーディナリー・ピープル」上映会

残席のこりわずかですが、タイミング合う方はぜひ〜♩

【その名は、ギリヤーク尼ヶ崎】 “語ることができてしまったら、別に踊らなくたっていいじゃない”

ハートネットTVで、伝説の大道芸人ギリヤーク尼ヶ崎さんが特集されていました。

 

ギリヤークさんの踊りをみて、

かなり心が動かされました。そして、公演を終えた後のギリヤークさんの表情がとても心に残っています。

最後のシーンは、またいつもの公園でひとり稽古がはじまるシーンは、ギリヤークさんが、生きてきた、そしてこれからも生きていく、その日常がただ映し出されていて、とってもいいシーンでした。

 

番組のディレクターさんへのインタビューにこんなことが載っていました。

 

――ギリヤークさんは高齢で病気で、満身創痍の体なのにも関わらず、なぜ踊り続けるのでしょうか?

その質問、僕も取材中に100回くらい聞いているんですよ(笑)。でも、核心とも言えるはずの答えは一切返してくれない……。僕自身は、彼の振る舞いや言葉の端々から、「語ることができてしまったら、別に踊らなくたっていいじゃない」「まず踊りを見て、それぞれが感じたことが答え」というように解釈しています。

 

 

 

ギリヤークさんの踊りには、なにかメッセージがあるわけでもなく、意味があるわけでもない。その踊りに触れ感じることで、今の自分が映されて、自分の中で感情が溢れてくる。

 

べてるの家の映画、ベリーオーディナリーピープルの監督である、四宮鉄男監督は、こんなことを言っています。

 

私は「べてるの家」のことは何も知らなかったが、清水さんの話を聞いて一つだけ条件をつけた。感動的なシーンは 撮れませんよと清水さんに言った。清水さんはそれでいいと言う。それで私は引き受けた。その頃すでに私には、 いい映画や素晴らしい映画を作ろうという気が消えていた。対象が面白ければ、或は対象が何かを発信していれば、 それをそのまま撮れば、見る人はそれぞれに何かを感じとることができるだろうという考え方をしていた。

(愚鉄パラダイスより)

 

最後に、ギリヤークさんと弟の会話のシーンで「一生懸命ただ踊ってきただけです。その中に、生きるということ全部含めて。」「一生懸命生きたっちゅうことですよ」と言っているように、べてるの人たちもまた、いろいろな苦しや、悲しみを感じながらも、「一生懸命生きている」のだと思います。その姿が、V.O.Pにもただ映し出されているのだと思います。

 

ギリヤークさんの踊りが、

べてるの人たちが、

僕を映してくれるように、

僕もただ、何者になるわけでもなく、

ただただ生きているその姿が、

他人を映し出し、誰かに気づきや学びをもたらす。

 

僕らはきっと今のそのまんまで、

一生懸命生きているだけで、

きっとすでにもう誰かにたくさん与えている。

 

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伝説の大道芸人・ギリヤーク尼ヶ崎に3か月密着!♢ETV特集「その名は、ギリヤーク尼ヶ崎 職業 大道芸人」 |NHK_PR|NHKオンライン

 

【経営ゲーム】自分と折り合いをつけるには

経営ゲームをやって、

ここが勝負!というタイミングがみえた。

 

会社の状況。

手番の残りの枚数。

相手の状況。

市場の状況。

会社の人材レベル。

いろんな要素が絡みあって、会社が成り立つ。

 

そして、その会社とともに、

自分の心も変化していくのが、

この経営ゲームの面白いところでもある。

 

結果的には、「ここが勝負!」と思って、

人材教育に力を入れたわけだけど、

うまくはいかなかった。(価業者進化が全てマイナスだった。)

 

会社の経営的にはうまくいかなかったのだけれど、

自分のなかではかなりの納得感があった。

(これはうまくいったというのかもしれない。)

 

こうやって結果的にはうまくいかなくても、

自分と折り合いをつけて生きていければいいなと思った。

 

1つの決断にはさまざまなものが紐付いている。

 

会社の状況。

手番の残りの枚数。

相手の状況。

市場の状況。

会社の人材レベル。などなど、、

 

今まで目が行き届かなかったところに、

すこしずつ目が行き届いてくると、

ひとつの意思決定で、

得られるかもしれないもの、

失うかもしれないものがなんとなく見えてくる。

 

うまくいかなくても、

それを受け入れて、

自分と折り合いはつけることができればいい。

 

やり続けると、見えないものがみえてくる。

それは、自分との折り合いをつける上でも、

とっても大切なことなのだと思う。

 

これを書いていて、

「永遠の少年」を思い出しました。

 

幸せであるということは、

陰と陽を見極めること。

この世のものごとには、すべて初めと終りがあり、裏と表があります。初めや表があって、終りと裏がなかったら、(あるいはないと思ったら)大変不幸になるのです。何でも初めがあるものに終りがあり、表があれば裏がある。これを知らない人が不幸な人です。

 

 

 

いつも不完全。いつも過程。

 

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何かができるようになったとき、

何かがわかったとき、

何かに気づいたとき、

 

できた存在として、

わかった存在として、

気づいた存在として他者と関わってしまうと、

相手との距離が生まれるように思う。

 

何かができることとか、

わかることとか、

気づくことよりも、

それを通して、

また新たな問いと出会うことを大切にしたい。

 

相手との「距離」をうまく言葉にすることができないのだけれど、

できることや、わかることをゴールとしたら、

そこで完結してしまう。

 

完結するのではなく、

できたことから、

気づいたことからまた新たな問いに出会う。

 

いつも過程にあり、

いつも問いを通して、

相手と関わっていたい。

 

自分ができたと思い、

わかったと思い、

そこで完結させたとしても、

きっとそれは分かったつもりでしかないのだと、

自分にいつも言い聞かせておきたいものです。

 

 

そして、完結させるということは、

そこから、それ以上生まれるものはないのだということを、

いつも心に留めておきたい。

 

いつもできないことがあり、

わからないことがある。

そしてそこには問いがある。

 

いつも過程であるからこそ、

どこまでも遠くに行ける。

だからこそ、僕たちの可能性は無限大なのだと思いました。

 

** ** **

 

いつも過程にいることは、

それは「不完全」と言い換えることができるかもしれない。

 

それはできない状態、分からない状態、

何かが不足している状態、不安定な状態、

だからこそ、そこには「問い」が生まれる。

 

この不完全さをどうしていくのか?

なぜ不完全なのか?

 

その「問い」が僕らを、僕たちの想像のできない遠〜くまで運んでくれる。

 

「わかった(わかったつもり)」

「できた(できたつもり)」

「目的」

「目標」

こういうものが、僕たちの「不完全な状態」を見失わせる存在になりうる。

(決して、すべてがそうではないけれど。)

 

「わかったつもり」になり、

「できたつもり」になり、

「目的」「目標」にとらわれ、

自分の「不完全さ」を見失ったとき、「問い」も失う。

 

そして、問いを失うことは、

自分の可能性を縛りつけることなのかもしれないな。

 

と思いました。