そのまんまたろうのブログ

そのまんまこそ本物だ。自分のそのまんまを、受け入れ、認め、ゆるし、愛しています。

Sonomamma Taro no Blog

そのまんまがあるだけ。そのまんまを、受け入れ、認め、ゆるし、愛しています。

「わからない」を共有できれば

「わからない」から、

次もまたやろうと思う。

 

次もまたみんなと学ぼうと思う。

 

次もまたチャレンジしてみようと思う。

 

次もまたこの人から学びたいと思う。

 

「わかった」と思った時に、

次は無くなってしまう。

「わからない」「できない」から継続されるものもある。

それは、人間関係だってそうなのかもしれない。

 

「わからない」を共有できていれば、

 

きっとずっと一生つながっている。

 

そんな人たちと過ごす時間は僕にとって大切な時間。

 

自己実現よりも、自己探求。

自己探求は、きっと多くの人との大切なつながりをもたらしてくれると思う。

V.O.Pが「予告編」である理由。

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べてるの家ドキュメンタリー映画「ベリー・オーディナリー・ピープル」は「予告編」が1〜8まであります。

「予告編」なので、とっても短い映画を想像してしまうのですが、

実際は、予告編1が60分、予告編2は90分!という長さの「予告編」なのです。

 ギネスブックに載ってもいいほど長い!「予告編」なのですが、

 なぜ「予告編」なのか?という問いを持った人もいると思いますので、

V.O.Pの監督である、四宮鉄男さんのブログ記事から、抜粋しました。

 

この「予告編」である理由も、「べてる」を感じられると思います♩

 

 

最初の清水さんの注文は十五分から二十分の予告篇だった。しかし、実際に編集をし始めるといっこうに短くならない。それよりも、そもそも短くする気が失せてしまうのだった。精神障碍でも、生活保護でも、それでも子ども生みたい! という山崎薫ちゃんの言葉をそのまま伝えたかった.。今は精神病であることを誇りに思っている! という坂本さんの破天荒な言葉もそのまま伝えたかった。すると、どうがんばったところで短い予告篇などはできっこなかった。長くてもいいですか、と清水さんに尋ねると、それでいいと言う。そこで60分の予告篇その1が誕生した。

•・・

本編という一本の作品を作ろうとすると、どうしても完結性が求められてくる。作る側も見る側も完結性を求めてしまう。 感動がほしくなり、結論がほしくなり、意味づけがほしくなり、素晴らしさがほしくなり、立派さがほしくなる。 しかし、毎日毎日をただひたすらに生きていることには限りがない。

生きることは、完結しない。生きることは死ぬまで続く。瞬間瞬間を輝いて生きているメンバーたちの姿を映像として定着していくのには、完結性が邪魔になったのである。生きることは、毎日毎日変わっていく。べてるもどんどん変わっていく。だから“べてるはこうです”とは、いつだって言い切れない。だからいつまでも予告篇なのだった。

(愚鉄パラダイスより 引用)

 

 

4月22日にV.O.P上映会を予定しています。

「べてるの家」 ドキュメンタリー映画「ベリー・オーディナリー・ピープル」上映会

残席のこりわずかですが、タイミング合う方はぜひ〜♩

【その名は、ギリヤーク尼ヶ崎】 “語ることができてしまったら、別に踊らなくたっていいじゃない”

ハートネットTVで、伝説の大道芸人ギリヤーク尼ヶ崎さんが特集されていました。

 

ギリヤークさんの踊りをみて、

かなり心が動かされました。そして、公演を終えた後のギリヤークさんの表情がとても心に残っています。

最後のシーンは、またいつもの公園でひとり稽古がはじまるシーンは、ギリヤークさんが、生きてきた、そしてこれからも生きていく、その日常がただ映し出されていて、とってもいいシーンでした。

 

番組のディレクターさんへのインタビューにこんなことが載っていました。

 

――ギリヤークさんは高齢で病気で、満身創痍の体なのにも関わらず、なぜ踊り続けるのでしょうか?

その質問、僕も取材中に100回くらい聞いているんですよ(笑)。でも、核心とも言えるはずの答えは一切返してくれない……。僕自身は、彼の振る舞いや言葉の端々から、「語ることができてしまったら、別に踊らなくたっていいじゃない」「まず踊りを見て、それぞれが感じたことが答え」というように解釈しています。

 

 

 

ギリヤークさんの踊りには、なにかメッセージがあるわけでもなく、意味があるわけでもない。その踊りに触れ感じることで、今の自分が映されて、自分の中で感情が溢れてくる。

 

べてるの家の映画、ベリーオーディナリーピープルの監督である、四宮鉄男監督は、こんなことを言っています。

 

私は「べてるの家」のことは何も知らなかったが、清水さんの話を聞いて一つだけ条件をつけた。感動的なシーンは 撮れませんよと清水さんに言った。清水さんはそれでいいと言う。それで私は引き受けた。その頃すでに私には、 いい映画や素晴らしい映画を作ろうという気が消えていた。対象が面白ければ、或は対象が何かを発信していれば、 それをそのまま撮れば、見る人はそれぞれに何かを感じとることができるだろうという考え方をしていた。

(愚鉄パラダイスより)

 

最後に、ギリヤークさんと弟の会話のシーンで「一生懸命ただ踊ってきただけです。その中に、生きるということ全部含めて。」「一生懸命生きたっちゅうことですよ」と言っているように、べてるの人たちもまた、いろいろな苦しや、悲しみを感じながらも、「一生懸命生きている」のだと思います。その姿が、V.O.Pにもただ映し出されているのだと思います。

 

ギリヤークさんの踊りが、

べてるの人たちが、

僕を映してくれるように、

僕もただ、何者になるわけでもなく、

ただただ生きているその姿が、

他人を映し出し、誰かに気づきや学びをもたらす。

 

僕らはきっと今のそのまんまで、

一生懸命生きているだけで、

きっとすでにもう誰かにたくさん与えている。

 

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伝説の大道芸人・ギリヤーク尼ヶ崎に3か月密着!♢ETV特集「その名は、ギリヤーク尼ヶ崎 職業 大道芸人」 |NHK_PR|NHKオンライン

 

【経営ゲーム】自分と折り合いをつけるには

経営ゲームをやって、

ここが勝負!というタイミングがみえた。

 

会社の状況。

手番の残りの枚数。

相手の状況。

市場の状況。

会社の人材レベル。

いろんな要素が絡みあって、会社が成り立つ。

 

そして、その会社とともに、

自分の心も変化していくのが、

この経営ゲームの面白いところでもある。

 

結果的には、「ここが勝負!」と思って、

人材教育に力を入れたわけだけど、

うまくはいかなかった。(価業者進化が全てマイナスだった。)

 

会社の経営的にはうまくいかなかったのだけれど、

自分のなかではかなりの納得感があった。

(これはうまくいったというのかもしれない。)

 

こうやって結果的にはうまくいかなくても、

自分と折り合いをつけて生きていければいいなと思った。

 

1つの決断にはさまざまなものが紐付いている。

 

会社の状況。

手番の残りの枚数。

相手の状況。

市場の状況。

会社の人材レベル。などなど、、

 

今まで目が行き届かなかったところに、

すこしずつ目が行き届いてくると、

ひとつの意思決定で、

得られるかもしれないもの、

失うかもしれないものがなんとなく見えてくる。

 

うまくいかなくても、

それを受け入れて、

自分と折り合いはつけることができればいい。

 

やり続けると、見えないものがみえてくる。

それは、自分との折り合いをつける上でも、

とっても大切なことなのだと思う。

 

これを書いていて、

「永遠の少年」を思い出しました。

 

幸せであるということは、

陰と陽を見極めること。

この世のものごとには、すべて初めと終りがあり、裏と表があります。初めや表があって、終りと裏がなかったら、(あるいはないと思ったら)大変不幸になるのです。何でも初めがあるものに終りがあり、表があれば裏がある。これを知らない人が不幸な人です。

 

 

 

いつも不完全。いつも過程。

 

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何かができるようになったとき、

何かがわかったとき、

何かに気づいたとき、

 

できた存在として、

わかった存在として、

気づいた存在として他者と関わってしまうと、

相手との距離が生まれるように思う。

 

何かができることとか、

わかることとか、

気づくことよりも、

それを通して、

また新たな問いと出会うことを大切にしたい。

 

相手との「距離」をうまく言葉にすることができないのだけれど、

できることや、わかることをゴールとしたら、

そこで完結してしまう。

 

完結するのではなく、

できたことから、

気づいたことからまた新たな問いに出会う。

 

いつも過程にあり、

いつも問いを通して、

相手と関わっていたい。

 

自分ができたと思い、

わかったと思い、

そこで完結させたとしても、

きっとそれは分かったつもりでしかないのだと、

自分にいつも言い聞かせておきたいものです。

 

 

そして、完結させるということは、

そこから、それ以上生まれるものはないのだということを、

いつも心に留めておきたい。

 

いつもできないことがあり、

わからないことがある。

そしてそこには問いがある。

 

いつも過程であるからこそ、

どこまでも遠くに行ける。

だからこそ、僕たちの可能性は無限大なのだと思いました。

 

** ** **

 

いつも過程にいることは、

それは「不完全」と言い換えることができるかもしれない。

 

それはできない状態、分からない状態、

何かが不足している状態、不安定な状態、

だからこそ、そこには「問い」が生まれる。

 

この不完全さをどうしていくのか?

なぜ不完全なのか?

 

その「問い」が僕らを、僕たちの想像のできない遠〜くまで運んでくれる。

 

「わかった(わかったつもり)」

「できた(できたつもり)」

「目的」

「目標」

こういうものが、僕たちの「不完全な状態」を見失わせる存在になりうる。

(決して、すべてがそうではないけれど。)

 

「わかったつもり」になり、

「できたつもり」になり、

「目的」「目標」にとらわれ、

自分の「不完全さ」を見失ったとき、「問い」も失う。

 

そして、問いを失うことは、

自分の可能性を縛りつけることなのかもしれないな。

 

と思いました。

 

相手にうまく伝わらない、誰ともわかちあえないその気持ちこそが〈自分〉

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 相手にうまく伝わらない、というその気持ちこそが〈自分〉なんだと。自分が深まっていくと同時に、伝わらないという気持ちだって、深まっていく。自分の中で思うことと、誰かに伝わることは全く別のことであって、思っていること、伝えたいことを「言葉」として自分の外に出す。その言葉で表現できることも限られていて、時間も限られていて、そんな中でも話さなければいけない。

 

 なんか、そう思うと「うまく伝わらない」ことを受け入れられて、認められて、逆に「うまく伝わったこと」、「共感してもらえたこと」って、とっても小さな希望なのだと思いました。

 

 この本のタイトルが「ひとり」であることの意味が少しわかった気がしました。

 

あなたが「自分はひとりだな」と思うようになったのは、自分以外の誰かを意識するようになったからともいえる。人と比べて自分はどこがどう同じで、どう違うのかをいろいろと考えるようになって、自分のことがだんだん見えてきたからでもある。

だとしたら、相手にうまく伝わらない、誰ともわかちあえないその気持ちこそが〈自分〉じゃないですか。自分でもわけがわからない、もやもやしたその気持ちのなかにこそ、自分自身をもっと深く知るための手がかりが潜んでいる。

(15歳の寺子屋塾 ひとり より引用)

 

 

技法以前

 
 

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私も、「何をしてはいけないか」を考えながら浦河で日々を重ねてきた。木村さんがリンゴのと土の力を信じるように、私も〈当事者〉と〈場〉のもつ可能性を信じているからである。あらゆる問題解決の糸口は、「問題自身」と、「問題が起きている場」のなかに備えられている。それを信じることができないままに、問題解決の糸口をほかに探そうとするところに行き詰まりが生じるのである。
(「技法以前」向谷地生良 著  はじめにより 引用)